第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「──よし」
襖をぴっちりと隙間なく閉める。
寝室に戻ってきた蛍は、裸で持ってきてしまった櫛の存在を今一度掌の中で見つめた。
一見華奢なように見えてしっかりとした作りの櫛は、見ているだけで自然と顔が綻んでくる。
ふふ、と吐息のような笑みを零して、ふと蛍は周りの散々たる様に気付いた。
「…片付けが先かな」
鏡は必要なものだ。
寝室には立派な姿見があったが、そこに飛び散ったままの自身の愛液には目を逸らしたくなってしまう。
部屋の隅に置いていた荷物の中から手拭いを取り出すと、見ないようにと赤い顔を逸らしたまま愛液を拭った。
(お布団も濡らしちゃったからどうにかしたいけど、流石にそこまでは…)
布団を片付けるとなれば、シーツやカバーから取り換えなければならないのではないか。
流石にそんな暇はないと諦めて見つめた矢先、蛍の足元でゆらりと黒い何かが揺らめいた。
「(あ。)朔」
蛍の足場の影から姿を現したのは、影の金魚の姿を成した血鬼術。
名を呼べば、ゆらりと扇のような立派な尾を揺らして布団の上へと漂っていく。
見た目は子猫程の魚。
それがとぷりと布団を波間のように見立てて、シーツの間に飛び込んだ。
「朔?」
一体何をしているのか。
様子を伺うように覗いてみれば、濡れたシーツの湿り気が朔ノ夜の泳ぎ起こす波に吸い寄せられていく。
朔ノ夜だけでなく、蛍の影そのものが物質的なものを取り込む能力を持っている。
その応用か。シーツの間をとぷんとぷんと尾鰭が跳ねる度、不要なものを取り除くように洗い立ての布団に変わっていく。
「そ、そんな汚いものを取り込まなくても…っ」
杏寿郎との性交により溢れ出たものだからこそ羞恥が先走る。
しかしわたわたと蛍が手を伸ばす間に、足早に仕事を終えた金魚は優美に高く天井を舞った。
「…本当、よくできた血鬼術だよね…」
ひらひらと宙を泳ぐ姿を見上げながら、乾いた笑みを浮かべて改めて感心する。
杏寿郎にも度々褒められていたが、それは術者の蛍の実力ではない。
この朔ノ夜自体の腕なのだ。