第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「じゃあ。私に一つ、提案」
「む?」
残り少なくなったワインを口に含むと、こくんと飲み干す。
仄かに赤い頬はアルコールの所為か、はたまた別のものか。
「杏寿郎は何もしなくていいから。ゆっくりご飯を食べながら此処で待ってて」
「待つ、とは…?」
「待つだけでいいから。あ。呼ぶまで来たら駄目だからね」
「来る、とは。何処に?」
「すぐそこっ」
席を立つ蛍の温もりを追いかけるように、杏寿郎の腰も浮く。
その唇にふにりと人差し指を柔く当てて、蛍は笑顔で静止をかけた。
「いい? ゆっくり、ちゃんと、味わって食べきってね」
「ぅ…うむ。しかし」
「大丈夫。すぐそこだから」
「そことは…」
「もう。その押し問答いつまで続けるの」
くすくすと笑いながら蛍が向かう先は、一度二人で使用した寝室。
そこに艶やかな雰囲気はなく、床を誘う為に向かった訳ではないことは杏寿郎もすぐに理解できた。
しかし何故寝室なのだろうか。
そわそわと落ち着かないままに体を揺らしながら、皿に残っていた海老天の尻尾をぱくり。
「…うまい」
パリパリと香ばしく嚙み砕いて飲み込みながらも、その目は蛍が消えていった廊下を見つめ続けていた。