第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「折角だからこの櫛、今つけてみたいの。…いいかな」
「っそれは勿論」
想いを形にするだけではない。
蛍にきっと似合うだろうと期待を巡らせながら、特注したものだ。
こくこくと何度も頷く杏寿郎の姿が、正に幼子のようで。愛おしそうに目を細めて笑いながら蛍も頷いた。
「髪、いつもみたいにまとめるかな…」
どう飾ろうかと、下ろした自身の髪を摘んで思案する。
そんな蛍の姿を微笑ましく見守りながらも、杏寿郎は僅かに肩を下げた。
「しかし、こんな所でこんなふうに伝えることになるとは…情調の欠片もなくてすまない」
「え? そう?」
「本当はもっときちんとした場所で伝えたかったのだが…」
(…普段はせっかちで豪快なことが多いけど、そういうところ気にすることもあるんだよね…)
情調のない場所で体を重ねたこともあったが、本当に蛍が嫌がることはしなかった。
蛍が正式に炎柱の継子となった時も、祝い物と称して丁寧な一張羅を作ってくれたものだ。
由緒正しい家柄で育った杏寿郎が、時と場合に合わせて顔を変えられることは知っている。
鬼殺隊の同胞である柱と向き合っている時は柱の肩書きを背負う強い顔だ。
駒澤村ではまた違う一面を見せていたが、それも煉獄家の嫡男という顔だった。
そんな杏寿郎が、そこまで拘りを見せてくれるのは他ならぬ蛍に関することだからか。
自意識過剰だと思われてもいい。
もしそうなら、胸の内がなんともこそばゆく、嬉しさが染みわたる。
「でもそれは私が話して欲しいって言ったからだよ。杏寿郎に落ち度は何もないから」
思わず緩みそうになる口元を引き締めて、嘆く杏寿郎を援護する。
「いや。先にも言ったが、櫛を贈る機会はいくつもあったんだ。…踏み出せなかった俺の失態だ…」
「そんな、そこまで言う程のことじゃ…」
「そこまでのことだ…」
「ぇぇぇ…」
しょんもりと落ち込むように頭を下げる姿は、まるで大きな獅子のようだ。
場所や情調などなくとも、涙が溢れる程嬉しかったのだから関係ないのではないか。
そんな言葉を寸でのところで呑み込んで、蛍は思考を巡らせた。