第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
柱に鬼。鬼殺に煉獄家。
二人を取り巻く足場はどれもが平坦なものではなく、挙式一つ上げることもままならない。
今ここで交わした契りも、他の誰も知ることはない。
杏寿郎と蛍の二人だけで交わされたものだ。
それでも鼻の奥がつんとする。
言葉にならない感情が溢れ出るように、目頭が熱くなった。
「っ」
溢れる感情はあれど、どれも喉の手前でつっかえて言葉にならない。
ただただ胸に満ちるこの幸福を取り零すまいと、目の前の体を掻き抱いた。
他の誰も知らなくてもいい。
二人の間にある想いが、こんなにも真っ直ぐに寄り添えていられるなら。
「…ありがとう」
強く抱きしめる杏寿郎の口から、ようやく絞り出すように落ちたのは小さな声だった。
少し震えているようにも聞こえたその声に、そっと蛍の手が背中に回る。
すんと鼻を啜って、しかと櫛を片手で抱いて。
「それは私の台詞だよ。…見つけてくれて、ありがとう」
鬼の体のなかに在る、人の心を拾ってくれた。
「私のこと」
見つけ出して、すくい上げて、抱きしめてくれたのは他ならぬ目の前の彼だ。
「いや…見つけてくれたのは君の方だ。俺自身も知らなかった、昔の俺が取り残してきたものを」
それこそ自分の台詞だと、杏寿郎の声に柔らかさが戻る。
齢十歳で決意した思いの下に取り残して、潰していた。
自分でも知らなかった幼心を見つけてくれたのは、鬼である彼女だった。
他の誰かではいけなかった。
互いでしか埋められなかった。
ひとつひとつ言葉を重ね、想いを育み、時に涙を拭い、ここまで辿り着いた。
だからこそ交わした契りに迷いはない。
数少なくとも口にしてきたその契りが、今日、確かなものへと形を変えた気がした。
「ねぇ、杏寿郎」
「ん?」
それはきっと杏寿郎が形として贈ってくれた、この櫛のお陰だ。
とんとん、と蛍の手が優しく杏寿郎の背を撫でる。
ゆっくりと体を離す杏寿郎の目に、少し恥ずかしそうに微笑む蛍が見えた。