第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「すごく、うれしい」
まさかそんな反応を貰えるとは思っていなかった。
それ程までに蛍の両眼の縁から溢れる透明な雫は、杏寿郎の目を釘付けにした。
「…貰って…くれるの、か?」
「勿論、だよ。返せって言われても、返さないから、ね。私のだもん」
くすんと鼻を鳴らして、そっと櫛を取り上げる。
胸に抱くようにして笑う蛍の目尻から、滑り落ちる真珠の涙。
そこに誘われるように、手を伸ばした。
「蛍……彩千代、蛍さん」
落ちていく真珠が勿体なくて。
受け止めようとしても、音もなく指の間を滑り落ちていく。
掴みきれはしない。
この目に、記憶に、とどめておくことしかできない。
そんな今この一瞬にだけ息衝いている蛍の姿が、酷く愛おしくて。
「俺と、夫婦となって下さいますか」
濡れた指先で、櫛を握る手に触れる。
緊張の残す声で、それでも真っ直ぐに想いを届けた。
涙で濡れた瞳がゆっくりと上を向く。
一つ、瞬き真珠を肌に転がして。
「──はい」
ゆるやかに花弁を広げるような綻びで、蛍は微笑んだ。