第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
天然石以外は全て銀でできた飾り櫛。
しかし艶消しや加工のされた職人の腕により、同じ銀でもなめらかな肌触りを残すところと、光沢を魅せるところとで装飾により見せる顔を変えた。
時に狐百合は真鍮のようにも煌めき、時に観世水は黒曜石のように暗く魅力する。
その中でぽつんと一つだけ別の存在感を思わせる翡翠の天然石は、櫛の飾り世界に誘われた一匹の蛍のようだった。
「……」
じっと櫛を見つめたまま動かない蛍に、そわりと杏寿郎の不安が芽を出す。
「っその…蛍が元より髪飾りに興味がないことは重々承知している。何よりあの簪を大切にしていることも。だからこれは気分を変えたい時の予備の櫛簪だとでも思ってくれればいい」
それらを告げられる前にと、自然と早口になる声で杏寿郎は返していた。
わかっているのだ。
蛍が世界に一つだけだと、何よりあの簪を大切にしていることは。
だから他の髪飾りなど興味も持たないことは。
そこに張り合うつもりでわざわざ一点物を作り上げてもらった訳ではない。
ただ自分がその形に拘っただけだ。
「俺はこういった経験などないから詳しくはないのだが、夫婦(めおと)となる相手には櫛を贈るものだと聞いた」
櫛はその名称から【苦(く)】【死(し)】と縁起の悪いものを連想させる。
だからこそ〝結婚生活は苦しい事も辛い事も多いが、死ぬまで一緒に寄り添いながら生きていこう〟という意味合いも持つ。
夫婦の契りを交わす時に、男性から女性に贈られるものとして江戸時代に根付いていた風習だ。
「だからこれは俺の〝誓い〟だ。君を妹背と…己妻と誓う為の」
逃げるように畳を見つめていた目線を、意を決して上げる。
「だから受け取って欲し──」
蛍が必要ないと告げても、受け取るまで折れる気はなかった。
その意気込みで顔を上げた杏寿郎の視界に、ほろりと落ちる雫が一つ。
「っ…」
ほろり、ほろりと落ちていく。
声無き声を震わす蛍の瞳から。
「…すごく、きれい…」
その涙顔に、杏寿郎は一瞬言葉を失った。
周りの時が動き出したのは、震える声を噛み締めた蛍を目にしてからだ。