第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「…開けても、いい?」
「ああ」
杏寿郎の緊張が伝わってくるようだ。
背筋を伸ばし、手の中にある長方形の小さな箱を見つめる。
頷く杏寿郎を今一度見つめた後、そっと箱の蓋に指をかけた。
長方形の漆塗りの黒箱。
その内側は鮮やかな真紅に染まっていた。
柔らかい裏の布生地に包まれて、箱の中にあったもの。
「…櫛?」
それは一つの飾り櫛だった。
日常で使う為のものというよりも、簪のように髪に飾るものとしての用途が強そうな飾り櫛。
そんな装飾品なら柚霧の時代にも幾つも目にしてきたし、時に男から貢物として貰ったこともある。
しかし今まで見てきたどの櫛とも、それは似通うものではなかった。
「錺簪という部類の櫛だ」
「かざりかんざし?」
普段見かける飾り櫛は、べっ甲や櫛が入っていた箱のような漆塗りのものが多い。
それとは異なる、美しい銀で作られた櫛。
部屋の明かりに当てられただけで角度により色味が変わるそれを、まじまじと蛍は見つめた。
櫛は立体的な造りをしていた。
櫛の上の飾りの部分は模様としての飾りだけを残して、空洞となっている。
浮き出すように削られ細工されたそこには、観世水(かんぜみず)のような水流のようにも見えるなめらかな彫り起こしがされていた。
右側には羽根を広げたような天を揺らぎ仰ぐ花。
その花弁の一つに小さな天然石が付いている。
そこだけ銀とは色味の違う、鮮やかな柔い翡翠色を灯していた。
「こんな櫛…初めて見た…」
「特注で作ったからな」
「え?」
「この観世水彫りは、蛍の影鬼を表している。こうすると…そら。影のように見えるだろう?」
杏寿郎が手を櫛の上に翳す。
するとどうだろう。陰の中で見える櫛は、背景の観世水を忽ちに黒い光沢のある波へと変えた。
「この花は君にも一度授けた狐百合。炎の花だ」
「この、石は…」
「この天然石は翡翠で作ってある。五月の石である"幸福"の名を持つ翡翠は、俺と蛍が想いを繋げ合った日にぴったりだと思ってな。この色味も蛍火のようだろう?」
「……」
「俺と蛍とを繋げたものを形にしたかった。そうして、二人の未来をそこに託せたらと」