第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
(そうだ。俺はこの女性(ひと)が愛おしくて仕方ないんだ)
他愛ない話をしている時も、目の前の料理に舌鼓をうつ時も、露天風呂でじゃれ合う時も、体を重ねて愛を契り合う時も。
どんな時でも愛おしさは等しく杏寿郎の中にある。
夕餉の合間でも、そうでない時でも、きっとそれは変わらないものだ。
「その…蛍」
「ん?」
こほん、と咳払いを一つ。
本来は伸ばす気のなかった手を懐に忍ばせ、僅かに喉を嚥下させる。
決心のようなものをごくんと飲み込んで、杏寿郎はそれを取り出した。
いつになるかはわからないが、いつでも渡せるようにと常に肌身離さず持っていたものだ。
「それ…?」
「君に、貰って欲しい」
少し緊張した様子で杏寿郎が見せたのは、黒い漆塗りの小さな箱だった。
角はまぁるく、柔い曲線で縁取られた箱。
差し出す杏寿郎とその箱を見返しながら、蛍はワイングラスを置いてそっと両手で受け取った。
「なぁに? これ」
「…形にしたかったんだ。大したものでもないが、君も不要と思うかもしれないが…何か、形に」
「うん」
いつもの杏寿郎とは似ても似つかない、朧気な回答だった。
太い眉の間は窮屈に寄せられ、はっきりとは告げない声がぼそりぼそりと何かを示す。
意味はいまいちわかり兼ねたが、受け止めるように一度頷いて。両手で握った箱を胸に寄せて、蛍は頸を傾げ笑った。
「何を形にしたかったの?」
柔らかな声。
優しく尋ねる蛍の声にそっと背を押されて、杏寿郎は一度結んだ唇をゆっくりと開いた。
「君が、俺の妹背であることを」
親しい間柄の男女のことを称する名称。
それは恋人同士にも使われるものだったが、杏寿郎が意図的にその名称を口にする時はいつも特別な空気を含んだ。
恋人ではない。
友人でもない。
生涯の伴侶となる、夫婦の契りを交わした時だ。