第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「はぐらかす理由はわからないけど、無かったことにしないでよ。杏寿郎が何かを感じて、伝えようとした言葉なら、私は聞きたい」
いつかにもこんなことがあった。
杏寿郎の脳裏に過ったのは、初めて蛍と体を重ねた日。
無自覚の嫉妬を覚えた杏寿郎に、逃げずに向き合った蛍の姿だ。
あの時、彼女がああしてこの心を捕まえてくれたから。
あの日、一生忘れられない程の思い出ができた。
「だから教えて。…杏寿郎が本当に嫌なら、無理強いは…しないから」
杏寿郎を気圧すほどの笑顔はいつの間にか消えていた。
恐る恐ると視線を合わせてくる蛍の指先が、きゅっと杏寿郎の浴衣の裾を握る。
不安でも、怖くても。大事な時、彼女はこうして等身大で向き合おうとしてくれる。
だからこそ互いが生きる世界の違う者同士であっても、ここまで共に歩んで来られた。
(俺の見栄など、蛍と比べるものじゃない)
そこに自分の我儘や見栄を押し付けるのは違う気がした。
雁字搦めにはせずに逃げ道は残してくれながらも、目を逸らさずにいてくれる彼女には。
ふぅー、と静かに息を吐く。
深呼吸を一度で繋げて心を沈めると、杏寿郎は眉尻を下げて苦く笑った。
「…俺も存外、見栄があったんだなと思ったんだ」
「見栄?」
「ああ。男という肩書きが持つ、我儘で幼稚な見栄だ。だが蛍を想うなればこそ譲れなかった」
頸を傾げる蛍の顔の横で揺れる髪を一房。掬うようにさらりと指先で梳く。
「こんな夕餉の合間などではなく、もっと前に告げる機会は幾らでもあったはずなのに。躓きたくなくて足を止めるうちに、気付いたらこんな所まで来てしまっていた。…不甲斐ない」
更に頸を傾げる蛍は、杏寿郎の言葉の意味をよくは理解していない。
それでも黙って耳を傾けるのは、杏寿郎が抱えた感情をつぶさに拾おうとしている結果だ。
愛おしいと思う。
追いかける瞳。纏う色合い。繋ぐ呼吸の一つまでも、蛍の感情は全てこちらへ向いている。
こちらへ明け渡して開いてくれている。
そのあけすけでありのままの心が、愛おしい。