第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「…笑ってる」
「ん? 蛍が可愛いことばかり言ってくれるからな」
胸の上で、もそりと見上げて不服そうに告げる。そんな蛍も愛らしくて仕方がない。
感情のままに緩んだ顔で頭部に頬擦りすれば、くすぐったそうに見返しながらも蛍は逃げ出さなかった。
寧ろ寄り添うように距離を縮めて、グラスを片手に杏寿郎に身を預ける。
「まぁ…杏寿郎が楽しいなら、別にいいけど」
ワインをちびちびと口に含みながら、ちらりと見上げた顔が苦笑する。
本音をほろりと吐露するようなくだけた表情。
蛍のその感情の機微を一つ一つ感じる度に、胸の奥があたたかい何かで広がっていく。
体の隅々まで心地良く染め上げていく、ほろりとあたたかい熱。
その心地良さに破顔したまま、杏寿郎も箸で運んだ次なる料理を噛み締めた。
ただこうして日常の一つに過ぎない景色を共に感じ、味わい、過ごすことが幸せだと思う。
果てしなく永遠で、瞬く様に一瞬で。
きらきらと見えもしない幸福という星屑の散らばりを感じる程に、景色が眩い。
(嗚呼、本当に)
昔に家族四人で笑って過ごした、あの色褪せない思い出のように。
胸の奥にずっとしまっておきたい、宝物のような時間。
「あ。そうだ、杏寿郎」
「ん?」
ふと何か思い出したように、口に付けていたワイングラスを退く。
顔を上げる蛍を横抱きにゆるりと抱いたまま、杏寿郎は優しい笑みを返した。
「さっき脱衣所の前で言いかけた言葉って何?」
「んグッ…げほ!」
それも束の間。
さらりと問う蛍の言葉に、飲み込もうとしていた大学芋を別の気道に取り込みかけて盛大に咽た。
「えっだ、大丈夫」
「っな、んのことだ?」
「何って。藤のお婆さんが来る直前に何か言いかけてたでしょ。俺のこのおも…とか」
「……言ったか? そんなこと」
「言ったよ。そんなこと」
どうにか咳き込みは止められたものの、背中を流れる冷や汗は早々消えてくれそうにない。
それでもにこりと笑って返せば、蛍もまた笑顔で返す始末。