第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「蛍のそのワインも飲んでみたい」
「これ? いいよ。でも西洋のお酒が和食に合うかどうか──んっ」
今度は蛍の手元に興味を示す杏寿郎に、笑顔でグラスを差し出す。
かと思えば口元に柔らかな反動を受けて、蛍の体は固まった。
視界がぼやける程に近い距離にあるのは、目を瞑った杏寿郎の顔。
滑り落ちかけたグラスはなんなくその杏寿郎の手に支えられて事なきを得る。
「ふむ。なんだ、味はしないのか」
「な、ん」
「いやなに。ワインしか味わっていない蛍の口なら、同じものを味わえるかと思ったが…案外違ったな。するのは精々匂いくらいだ」
ぺろりと己の唇を舐めて顔を離す杏寿郎は、飄々と事の感想を口にする。
反してぽんっと頬を染めた蛍はどうにか両手で握ったワインを零さないように努めるのに必死だった。
飲みたいというから差し出したのに、何故唇を奪われる羽目になるのか。
「だが蛍の唇なら仄かに甘いと感じる。これはワインの効果ではないなっ」
「な…んっ」
にぱりと嬉しそうに邪気のない顔で杏寿郎が笑うものだから。
今度こそごとりと机にワイングラスを半ば落とすように下ろして、ぽすりと目の前の分厚い胸板に突っ伏した。
「蛍? もう酔ったのか?」
「酔ってません…酔ってます」
「どっちなんだそれは」
「お酒には酔ってないです…」
目の前の全身で愛嬌と愛情を向けてくる彼に酔っているだけで。
「もう…ずるい。杏寿郎だけ」
「俺だけ?」
「私だって触れたいのに…」
「? 成程、大歓迎だが」
「駄目だよ。そんなにご飯もりもり食べてる杏寿郎を私が味わったら、下手したら気分悪くなっちゃうから」
「よもや…成程」
匂いはまだしも、味覚となると鬼である蛍にとっては死活問題。
そんな真面目なようで惚気のようにも聞こえる返しに、杏寿郎は頸の後ろがむず痒くなるような気がした。
蛍は真面目に答えているだろうが、頬が緩んでしまって仕方がない。