第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「…じゃあ」
ほんのりと照れの混じる表情を見せるものの、蛍の口元の笑みは消えない。
ワイングラスを手にしたまま「お邪魔します」と律義に声をかけて、ちょこんと杏寿郎の胡坐の中に座る。
「食べ難くならない?」
「問題ないな! ほら、これなんて脂が乗っていてとても美味そうだ!」
「ん…ほんとだ、良い匂い」
立派な鯛の煮つけ皿を寄せれば、くんと鼻を鳴らした蛍も嬉しそうに笑う。
例え味わうことはできなくても、こうして同じ匂いを感じて楽しむことはできる。
確かに他の鬼には見られない蛍の特異的特徴の一つだが、それが杏寿郎には特別なことのように感じた。
異端ではない。
それが蛍を人として繋げるものの一部だと。
特別なものとして、彼女の中に残されたものではなかろうか。
「杏寿郎? どうしたの、食べないの?」
思わず顔を綻ばせるままに近い距離にある蛍を見つめていた。
視線をきょとんと返されて、はたと我に返る。
「ああ、そうだな。では頂こう!」
「じゃあ私も。いただきます」
薄い浴衣越しに感じる互いの体温。
どこもかしこも柔らかな蛍の体を腕の中で感じながら、杏寿郎は先程よりもゆっくりと食事を進めた。
「これもうまい!」
「こっちの小鉢は里芋かなぁ…味噌和えみたい」
「味噌和えか!…あ。」
「あ?」
「あ!」
「ふふ。はい、あー」
「んっうまい!!」
口を大きく開けて雛のように強請る杏寿郎に、くすりと笑う蛍が箸で里芋をすくい上げて運ぶ。
傍から見れば無作法にも思える食事の仕方も、今この場で咎める者は誰もいない。
思うがまま、気を許すがまま、素のままに。互いにだけ見せる姿で楽しむ食事は、時間など忘れさせた。