第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「俺も今は柱としての己ではなく、煉獄の名の嫡男でもなく。ただの杏寿郎という男として蛍の傍にいたいと思っている」
肩書きも立場も尊厳さえも必要ない。
他人から見れば例え粗悪に見えるようなものでも、お互いだから何にも代え難く欲するものへと変わるのだ。
「俺は他人が称賛する君ではなく、俺しか知らない君が今は欲しいんだ」
赤裸々に告げる杏寿郎に、返す緋色の瞳が揺れる。
張っていた力を抜くように肩を下げると、蛍は照れ臭そうにふはりとはにかんだ。
「…本当、杏寿郎には適わないなぁ」
「そうか? 俺の方こそ常日頃蛍に完敗しているんだが」
「そうなの?」
「うむ」
「よくわからないけど…とりあえず、差し箸はやめよっか」
「む。これは失敬」
「ふふ。嘘だよ」
ぱくりと急いで海老天を頬張る杏寿郎に、くすくすと鈴を転がすように笑って。
「今は、煉獄家の長男じゃない杏寿郎でいてくれるんでしょう?」
ゆるやかに頸を傾げて、柔く問いかける。
先程の生真面目な姿が薄れ、仄かに甘くも感じる蛍の姿に、ごくんと喉は大ぶりの海老を飲み込んだ。
「ん、ぐっ…うむ!」
「わ、一気飲み。大丈夫?」
「問題ない!」
待ち望んでいたというのに、いざ目の前にすると心は簡単に揺さぶられる。
そんなこといつものことだろうと自身に言い聞かせながら、杏寿郎は勢いよく湯呑みの茶を喉に通した。
「ねぇ杏寿郎。そっちに行ってもいいかな」
「む?」
「杏寿郎が美味しそうにご飯を食べるところ、近くで見ていたい」
「そうか。ではおいで」
「うんっ」
そわそわと期待に満ちた目をしながら何を言い出すかと言えば。
無邪気な蛍のその思いに、己の中にある欲まで綺麗に流されていきそうだ。
湯呑みを置いて手招けば、嬉しそうに蛍は席を立った。
「さぁここに」
「え…そこ?」
邪でなくとも、そんな蛍だから愛おしいと感じる心は変わらない。
その心に率直に従うまま、杏寿郎は胡坐を掻いた己の膝をぽんと叩いた。
「いいだろう? 折角二人きりなんだ。何者でもない俺は、何者でもない蛍と触れ合っていたい」