第32章 夜もすがら 契りしことを 忘れずは
「その…着物は…」
「あ、うん。これは杏寿郎に貰ったアネモネの着物。最初はこれを着飾ろうと思ってたんだけど、朔が」
ようやく口を開いて最初に問いかけたのは、やはり着物のことだった。
白染めしたとは思えない、不可思議な煌めき。
問えばやはり血鬼術が関係しているという。
「前に私が影で薄い壁を作った時に似てると思うけど…多分。朔が触れたら、着物が朔の鱗みたいに変わったの」
「だから色染めした訳じゃないから心配しないで」と笑って、手持ち無沙汰な指先で頬を掻く。
「どう、かな。少しは…杏寿郎のお嫁さんみたいに、見えるかな」
橙の光に照らされてもわかる程に、じんわりと蛍の頬が赤らむ。
俯き加減にぽそぽそと問いかけてくる姿に、心の臓が鷲掴まれたようだった。
真白な着物は花嫁衣裳を象ったものだと言う。
改めて思わず頭から爪先までまじまじと見てしまう。
「杏寿郎?」
「ぁ…ああ」
頸を傾げる蛍に、二度目の呼吸を繋げる。
「すごく、綺麗だ」
目が逸らせなくなる程に。
笑顔を向ける余裕もなく、唖然と見つめたまま告げる。
杏寿郎のそのぎこちない反応は、蛍にとっては十分なものだった。
穴が空きそうな程に見つめられて、強い視線に気恥ずかしそうにしながらもはにかむ。
手持ち無沙汰に頬を掻いていた指は彷徨った末、意を決したように三つ指を揃えた。
「杏寿郎が、何者でもない二人きりでいてくれたから。私も今夜は、鬼でも継子でも、何者でもない私でいる」
そっと揃えた指を畳みに伏せて、立ち尽くす杏寿郎を見上げる。
薄紅色に染まった唇をほんのりと緩やかに上げて、静々と頭を下げた。
「頂いたこの御櫛(みぐし)に身を任せて、今夜だけは…煉獄蛍と名乗らせて下さい」
ひとつ、呼吸を繋げるだけの沈黙。
嫌な空気ではない。それでも確かにその一呼吸で変わった空気を飲み込んで、蛍はそっと顔を上げた。
見上げる先に、愛おしいものを見つけた表情(かお)で微笑んで。
「私の、旦那様」