第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
唐突に。
ジャリ、と無遠慮な足音が響いた。
二人の間に流れていた甘い空気は色を変え、険しい顔をして謙信がさっと立ち上がる。桜は謙信と共にほんの少しだけ開いた障子から外を覗いて、絶句した。
屋敷の周りを、武装した男達が包囲している。その先頭に、怒りを隠そうともせずに立っているのは。
秀吉さん、政宗…ッ!
「謙信様、大変です…っ」
「こっちだ」
声を押し殺して、二人は出来るだけ屋敷の奥へと移動した。焦る桜を尻目に、謙信は涼しい顔のまま。
「謙信様を捕らえに来たんでしょうか…」
「心配するな、お前を抱えたままでも、軽く切り抜けてやる」
獰猛な光をその眼に宿して、謙信は刀を確かめるように触った。
「どうするおつもりですか?」
「そのまま春日山へ戻る。当然、お前も連れていく」
事も無げに言うその言葉が桜にもたらす感情は、嬉しさだけではなかった。敵将という立場の男を愛するという意味を、今初めて実感する。
「…謙信様。私のわがままを一つだけ、きいて下さいますか」
「……」
静かな桜の声に何を悟ったのか。目の前の男は、形のいい眉をこれ以上ないほど歪めて、けれどその言葉の続きを待っている。
「私を囮に残して、謙信様は逃げて下さい。私はその後城へ戻って、安土城の皆を説得したいんです」
「説得?」
「はい…謙信様と共に生きていくことを。行くあてのなかった私を、彼らは家族のように守ってくれたんです。このまま別れたくありません…どうか」
だめだ、と一言切り捨ててしまえばいい。無駄口を叩く隙もなく攫って、馬に乗せてしまえばいい。
けれどそうしてしまえば、桜はその笑顔を曇らせるだろう。それでは、意味がない。
「…一刻だ。それ以上は待てん」
「はい…!」
ガタガタ、引き戸を開けようとする音が響いた。桜は慌てて自分の体を探ると、謙信に向き直る。その手に握られているのは、小さな巾着袋だ。
「これを、預かっていて下さい…私の大事な物です」
「分かった。必ず来い…場所は、分かるな」
「はい!」
力強く頷いた桜の手を握り、少しの間じっと見つめた後。謙信は一人姿を消した。