第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
「うぅ…ん…」
苦しい…。
妙な息苦しさを覚えた桜が目を覚ました。まだ重い瞼をどうにかこじ開ければ、目の前に壁がある。
何だろう、温かい…。
寝ぼけた頭で、その壁にすり寄った。けれど、肌寒い朝の空気と違和感が、桜の脳を唐突に覚醒させて。
「……ッ!!」
何とか大声を上げずに済んだ代わりに、びくっと大きく体がのけ反る。
腕の中の桜が動いたことで、謙信の意識も浮上した。驚きに見開かれた目元までを赤く染めた桜がいる。
「おはよう、桜」
「お…おはよう…ございます…」
二人の寝る褥には、障子を通して外からの光が柔らかに当たっている。それを受ける謙信の顔は、髪の毛が落とす細い影一つまで計算されたように端正だけれど。
近い…!
頭が沸騰してしまいそうな距離に、少しでも離れようと試みても、桜を捕まえる謙信の腕がそれを許してくれない。
背中に当たる謙信の手に力が入ったのを感じたのと同時に、左右で違う色の瞳が桜の顔へと近づいてくる。
「…ッ」
息がかかるほどの距離まで近づかれて、反射的に瞳を閉じた。こつん、と何かが触れたのは、額。
「もう、熱はないようだな」
「え?あ…そういえば」
指摘されて目を開けた。
昨日まで体を支配していた頭の重さはどこかへ行ってしまって、病み上がりの体のだるさ以外はほとんど治りかけているようだ。
「体調、いいみたいです」
「…そうか」
少しだけ目元を緩ませる謙信の顔を、桜はその距離の近さも忘れ、無意識にじっと見つめていた。
熱に浮かされ、ふらつきながら謙信に必死に何かを訴えた記憶はあれど、正直細かい所まで思い出せない。
それでも、自分を見ていた謙信の優しい眼だけは脳裏に焼き付いていて。高熱が見せた幻かと思ってしまうほどに信じがたいけれど。今もこうして謙信が、同じ眼で桜を見てくれている。