第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
はあはあ、と呼吸が荒くなってきた桜のために、謙信はすっと部屋を出て行った。ほどなくして、水を張った桶と手ぬぐいを手に戻ってくる。
薬はないが…。
少しでも楽にしてやりたくて、額に冷たく絞った手ぬぐいを乗せてやる。
「後悔はない、か…」
桜が謙信に向かって放った言葉を反芻する。出会った事にも想いにも後悔はない、という桜の言葉が、謙信の心の隙間を驚くほどに簡単に埋めた。
結局ただ、負の感情に取り込まれることを恐れていただけなのだろう。何かにつけ言い訳をして、大事な物を作らずにいた謙信の心は覚悟を決めていた。
お前が望むならば、俺もそうしよう。
今までにすり寄ってきた女は、謙信が冷たく追い返してやれば面白い程逃げて行った。辛い思いをしてもなお、めげずに向かってきた女は桜だけだ。
思えば最初から、桜が欲しかったのだ。安土で再会した時、ここで逃げられたら二度と逢うことは叶わないと、無意識のうちに体が動いていて。
他の者達には簡単に見せる笑顔が、自分へは一向に向けられない事に腹が立って。本当はずっと、謙信の方が桜の心を求めていた。
手に入れたからには、放す気はない。あらゆる手を尽くしてでも、その笑顔を守ってやるつもりだった。
「謙信様」
外からの声に、謙信は立ち上がった。招き入れてやれば、佐助が遠慮がちに様子を伺っている。
「桜さんは…?」
「奥で眠っている」
熱が上がっている事を話せば、佐助は顔を曇らせた。けれど、謙信が桜を帰さなかったことにその意味を悟る。
二言三言会話をして、すぐに去って行った佐助を見送り、謙信は桜の横へと寝転んだ。安土からどう攫ってやろうかと、そればかり考えながら。