第28章 それゆけ、謙信様!*遁走編*
「謙信様、私、帰りますから…」
「帰るなと言っただろう。その熱で外には出さん」
有無を言わさぬ迫力が、桜を布団に縫い付けた。一度横たわってしまうと、熱に浮かされた桜の体は急激なだるさに襲われ、意識が朦朧とし始める。
枕元に座る謙信は、桜の顔にかかる髪をそっとよけた。
「俺から離れる機会を与えてやったというのに…お前はそれでも近づいてきた。俺は、自分の手中に一度収めたものは手放さん…覚悟しておけ」
「え、嘘…?」
「何なら、つねってやる」
それまでずっと不機嫌そうにしていた謙信が、初めて薄く微笑んだ。震えるほどの歓喜が桜の体を駆け巡り、視界がぼやける。
「嬉しい…」
「泣くな」
桜の目元に指が触れた。その優しい触れ方にまた潤みそうになる瞳を、桜はぱちぱちと瞬く。
「桜」
その瞳に自分を映したくて、謙信は桜の顔を覗き込んだ。その距離の近さに、桜は思わず息を呑む。
「…うつります…っ」
「お前の風邪が治るのなら、俺が引き取ってやる…元々、俺のせいだろう」
「それはちが…っ」
反論を述べようとする唇を、指で押さえて。静かになった桜のそれに、触れるだけの口づけを落とした。熱のせいだけではない朱が、桜の顔を染める。
「今は眠れ…桜。そばにいてやる」
「ありがとう…ございます…」
目を細め、心から笑った桜は、安心したように微睡み始めて、そのままことんと眠りに落ちた。そんな桜の顔を、謙信は動かないままじっと眺める。
「お前、自分じゃ気がついていないのかもしれないが…姫に偶然会ったと言って帰って来た日は、とても良い顔だった」
一昨日の酒盛りの席。佐助と幸村が出て行った後で、信玄がそう言った。
分かっている。
一人を好む自分が、この娘なら隣にいても悪くないと思った。腕の中に閉じ込めて、ずっと手元においておけたらいいと、望んでしまうほどに。