第35章 過去編:名前のない怪物
「おい、泉!どうするつもりだ?」
部屋から出て行こうとする泉と佐々山を呼び止めれば、慎也と宜野座が問う。
「ちょっともう一つだけ気になってることがあるのよ。」
泉がそう言った瞬間、二係の女性執行官が声をあげた。
「被害者の身元が特定されました!イタリア系準日本人のアベーレ・アルトロマージです!」
聞き覚えのある名に佐々山が歩みを止め会議室内を振り返ると、愕然とした表情の慎也と目が合う。途端に佐々山と泉の脳裏に艶めいた黒髪の残像が浮かび、戦慄する。
二人の戦慄を知るよしもなく、女性執行官は報告を続ける。
「現在、彼の一人娘である桐野瞳子さんが所在不明です!」
「日向チャン!」
「行くわよ、佐々山くん!慎也と伸元は桜霜学園の方に行って!」
泉が叫ぶと同時に、横から志恩が控え目に言う。
「あのさ、青柳さん達行っちゃったんだけど、この藤間って男、学園から捜索願が出てるみたいよ。学園はもちろん、自宅にもいないんじゃない?」
「――扇島だわ。」
泉の言葉に佐々山は頷けば、泉に続くように走り出した。
「あ、おい!泉、佐々山!勝手な行動をするな!」
一足出遅れた慎也は慌てて二人の後を追った。
本来であれば執行官は護送車で運ばれるが、今佐々山は泉が運転する車の助手席に座っていた。黙ったまま運転をする泉の横顔に、佐々山は思わず口を開く。
「――日向チャン。顔、怖いぜ?美女が台無し。」
「うるさいわね。美人は怒ってても変わらないでしょ?」
「ははっ。確かに。」
まだ軽口を叩く余裕はあるようだ。佐々山は懐から煙草を出せば、火を点けた。
「センバ翁に何か言われたよな?」
「――えぇ。」
「何か思い出したのか?」
「――えぇ。」
多くを語る気はないらしい泉に、佐々山もそれ以上の質問をやめる。ややあって、泉は静かに口を開いた。
「――兄が妹を守る為に記憶を奪うって考えられる?」
「さぁな。でも――、その記憶が妹を哀しめるのなら俺は奪うかも知れねぇな。」
佐々山の返答に、泉は感情の無い声で頷くだけだった。