第82章 誰が為に鐘は鳴る
「…いくの?」
「わだじは此処で身を退く…長居し過ぎるど、同じに戻れなくなる」
「…いける?」
「ああ。コムイ室長が道を拓いてぐれたからな。あの人のお陰で…やっど、眠れぞうだ…」
亡霊の姿は見えない。
しかし濁った声の中に混じる安心しきった子のような音に、まるで彼女の口元は笑っているようにも思えた。
「わだじは、あの人を見つげられだ…お前も、その女を…椎名南を見つげだなら、道を正せ…遅くは、ない…ぞ───」
それは呆気ない感覚だった。
ふ、と、心の何かが欠けるような感覚。
ぼやけていた亡霊の声が空気に吸い込まれるように消えて、ああ、と悟った。
彼女は逝けたのだろう。
本来あるべき所へ。
「………」
「…だいじょうぶ、」
じっと空を見上げるダグの手を、南はやんわりと握り返した。
「だぐくんがわたしにこたえてくれたのは、じぶんのためだけじゃないよ」
「…そんなこと、わかるのかい?」
「うん」
「なんで?」
「ひとみが、がらすだまじゃないから」
見上げた先の、幼さが残る団栗眼。
重なる瞳に、南は微笑んだ。
「おしえてくれたのは、だぐくんだよ」
"もう、いいよ"
ずっと心の奥底で呼び続けていた。
誰にも届かなかったその声を拾ってくれた彼は、哀しい瞳をしていた。
けれど確かに南を視て応えてくれたのだ。
しまい込んだ幼い子供のような自分は、まだ消えそうにはないけれど。
彼がいるならば。
『───いいよ』
ふわりと、南の肩に何かが触れた。
は、と振り返る。
肩に触れたのは、大きな手だった。
ペンだこの残る、少しささくれた指。
懐かしさを覚える、少し低い声。
幼い目線で見えたのは、くたびれた白衣の擦れた端。
『もう、いいから』
呼び続けたことも。
馳せ続けたことも。
求め続けたことも。
全てを認めて頷いてくれた瞳は、透き通る色をしていた。
「…ぁ…」
喉が震える。
漏れそうになる嗚咽を抑え込んで、南は俯いた。
嗚呼、やっと。
「みつけ、た」