第82章 誰が為に鐘は鳴る
「っ…?」
落下した体に重力が掛かったのは一瞬だけだった。
瞬く間に闇に吸い込まれると思ったリーバーの体は、目で追える程にゆっくりと降下していく。
食い縛っていた奥歯を緩め、恐る恐る辺りを見渡す。
何もない暗闇で、やがてリーバーはそれらを見つけ出した。
「なんだ…?」
ゆっくりと降下していく深い闇の底。
そこから重力を無視して浮き上がってくる、幾つもの影。
びっしりと付箋の付いた参考書。
インクで持ち手が汚れたつけペン。
イニシャルが書かれたマグカップ。
ひよこ型のタイマー式時計。
桜の花弁の模様が付いた箸。
「これは…南の…」
どれもこれも、どこか見覚えがあった。
ふわりと浮いてはリーバーを過ぎ去っていく物は全て、科学班の研究室で南が使っていた、彼女の所有物であった物。
やはりこの先に南はいるのか。
物が過ぎ去っていくのではない。
リーバー自身が深い地の底に身を落としていく感覚を自覚しながら、何も見えない闇に目を凝らし続けた。
どれくらい落ち続けていたのか。
長いような、短いような、時間の感覚はよくわからないものだった。
そうして目を凝らし続けてやがて見えてきたのは、闇の終わり。
ぼぅ、と微かな光が見えた。
「見えだぞ」
亡霊の声で確信に至る。
ゆらり、ゆらりと揺らめく微かな赤く淡い光。
それが何かに灯されたものだと気付いた時には、リーバーの眼下にその空間は存在していた。
ゆっくりと足が付いた先は、瓦礫の地面ではなかった。
細い藺草が左右折々、編み込まれた敷物状の畳床。
10畳程の空間には、本棚や箪笥や背の低い木材の机など、一般的な家庭にありそうな物が置かれている。
しかし西洋の造りとは多少異なる、どことなく小ぢんまりとした小さな空間だ。
小さな丸い机の傍に置かれた、和紙で包まれた行灯。
その中で燃える小さな光が、赤く淡い灯りだった。
「此処は…」
「知っでいるのか?」
「いや…見覚えがない。教団にこんな部屋はない」
「なら女の記憶にあるものだろう」
小さな灯り一つでは、部屋の詳細まで掴めない。
ぼんやりと浮かぶ、どこか浮世離れした部屋を見渡すリーバー。
「ひとーつ。ふたーつ」
声は、部屋の隅の暗がりから聞こえた。