第82章 誰が為に鐘は鳴る
「っ(動け…足!動いてッ!)」
それはデンケ村で、背後の謎の影のような脅威に伸し掛かられた時と似ていた。
恐怖で雁字搦めにされた体は動きたくとも動いてくれない。
ずるりずるりと床を這いながら迫ってくる謎の墨の塊のような人型は、速度は遅い。
体さえ動けば逃げ出せるはずだ。
なのに足は竦み動けない。
───ガァン!ガァン!ガァン!
「!?」
突如何処からか銃声が3発轟いた。
それがリーバーの放った警告音であることを悟る前に、渇を入れられたかのように体が跳ねた。
動く。
無意識に足は謎の人型から離れるように廊下へと踏み出した。
「っ…」
迫ってくる人型とは別の方角へと小走りに足を進める。
怪我の所為で走ることはできなかったが、床を這ってくるそれより速度は速い。
このまま行けば恐らく逃げ切れるだろう。
───ズ……ズ…
床に頭部を擦り付けながら這ってくる嫌な音が、段々と遠ざかる。
追いつかなければ無事だ。
ほっと、少しだけ安堵した。
「…ア"…」
聴こえたのは、濁った人の声のようなものだった。
「ァア…ア"…」
まるで苦し紛れに生まれる呻き声のような。
言葉にもなっていない不気味な声。
「ァゥ"…ア…」
人型から発せられている声なのか。
壁に手を掛けたまま、思わず南は振り返った。
ずるりずるりと、後方に黒い血痕を残しながら這い進む。
床に擦り付けられていた頭部は上がっていた。
手も足も胴体も全て墨で塗り潰されたような黒。
なのにその頭部だけは真っ白な発色をしていた。
「…ぁ…」
どこか見覚えがあった。
どこか聞き覚えがあった。
苦しい呻き声は、その肉の付いていない剥き出しの歯の間から零れ落ちる。
「ア"ァエ…ガ…」
言葉にはなっていない。
しかし眼球のない窪んだ空洞の二つの無き目は、南へと縋っているようだった。
体が震える。
恐怖とは別の旋律が南の体に走った。
逃げようとしていた足が止まる。
振り返り、包帯だらけの両手を握り締めて。
南は、泣きそうな顔を歪めさせた。
「……タップ…?」
亡き友を前にして。