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恋愛短編集

第7章 Happy Birthday to YOU.


​金曜の夜。
厨房の奥で作業をしていた僕は、店に入ってきた女性の姿を見て、一瞬で思考が止まった。
いつも以上に念入りに整えられた髪、お洒落をした服装。
そして選んだのは、うちの看板商品のホールケーキ。
 
そうか。今日は、そういう日なんだな。
​胸の奥に、冷たい鉛を流し込まれたような感覚が走った。
 
常連である彼女の好みは、ずっと厨房から見守ってきた僕には手に取るように分かっていた。
甘さは控えめで、素材の輪郭がはっきりしたものが好きだ。特にフルーツ、そしてうちの自慢の生クリームには目がない。

​実は一度、彼女の好みだけを詰め込んだ新作をショーケースに並べたことがあった。
 
自慢の生クリームにピスタチオペーストを贅沢に練り込んだ濃厚なクリームと、鮮やかな酸味を放つフランボワーズのジュレ。 
「少し大人向け」と銘打ったそのケーキを、彼女は見た瞬間、吸い寄せられるように一目で選んでくれた。
普段は閉店間際にやって来て、その時間を過ぎるまで悩み続ける彼女が、あの時だけはすぐにそれを決めて、宝物を見つけたような子供みたいな笑顔。
  
「……あんな顔、僕以外の誰かに向けるのか」
そう思った瞬間、あんなに情熱を注いでいた仕事への気力が、嘘みたいに消えてなくなった。
  
彼女が大事そうに箱を抱えて店を出ていく後ろ姿を見送ったあと、僕はスタッフに後の作業を任せ、逃げるように店を飛び出した。
パティシエでもある前にオーナーでもある僕が稼ぎ時の金曜に店を空けるなんて、プロ失格だ。でも、今の僕には、幸せな誰かのためにケーキを焼くなんて、とてもできそうになかった。
 
​重い足取りのまま、自宅とは逆方向にあるコンビニの前で立ち止まる。
夜風を吸い込み、情けない自分を嘲笑っていた。勝手に期待して、勝手に終わった気になって、仕事を放り出して。

もし、あのまま店に残っていたら。
もし、プロとして感情を殺して厨房に居続けていたら。
 
​きっと、この「偶然」には気づけなかった。
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