第3章 『誤差る』
──木曜日、
午後二時五十分。
「…………」
湯川は、机の上の時計へ目を向けた。
それから何事もなかったように、手元の論文へ視線を戻す。
数式を追う。
一行、
二行、
三行、
ページをめくる。
午後三時三分。
「…………」
再び時計を見る。
研究室は静かだった。
学生たちの話し声が、遠くの廊下から聞こえてくる。
空調の低い音、紙をめくる音、
ペン先が机に触れる音、
──それだけだ。
湯川は窓へ目を向けた。
……開いている。
春の風が、カーテンを僅かに揺らしていた。
しかし、いつもの音が聞こえない。
「…………」
火曜日と木曜日。
午後二時から四時の間。
必ず、という訳ではない。
そもそも彼女自身がそう宣言したわけでもない。
湯川が過去数週間の観測から導き出した傾向に過ぎない。
講義や部活動、友人との予定、
大学生なのだから、予定が変動することくらい当然ある。
今日は練習をしない、ただ、それだけのことだ。
何も可笑しくない。
「先生」
声を掛けられ、湯川は顔を上げた。
自身のゼミの生徒が資料を持って立っている。
「これ、確認お願いできますか?」
「ああ。そこに置いておいてくれ」
「分かりました」
学生が去っていく。
再び静かになる。
午後三時十一分。
「…………」
湯川は立ち上がった。
「コーヒーだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
長時間の研究で集中力が低下している。
ならば、一度席を立つことには合理性がある。
ついでに外の空気を吸うことにも、
一定の効果は期待できる。
別に──、
星宮君が普段練習している場所を確認しに行く訳ではない。
研究室を出る、廊下を歩く、階段を下りる、
自動販売機で普段は買わないコーヒーを買う。
そこで戻ればいい、それなのに。
「…………」
気づけば湯川は、いつもの場所が見える廊下を歩いていた。