第4章 因縁の残火
しかし親指が鍔を押せない。
抜けばいい。
ただ、それだけのこと。
なのに、指先がまるで動かなかった。
「(もし…この刀を抜いたら…俺はまた、人斬りに戻っちまうんじゃねぇか…)」
脳裏に蘇るのは、血に染まった幕末。
命を斬り伏せるたび、何も感じないよう心を閉ざしていた自分。
『人斬り抜刀斎』と恐れられた日々。
桜との約束。
幸太の笑顔。
守ると誓った、かけがえのない未来。
「(俺は…人を守るために抜くのか。それとも…人を斬るために抜くのか)」
柄を握る手が、小さく震えた。
比古はその様子を黙って見つめていた。
「どうした?」
低く響く声。
「抜けんのか?」
斗亜は唇を噛む。
「怖ぇんだ…」
その一言だけが、静かな山に落ちた。
剣心の瞳が、わずかに揺れる。
「(怖い…?)」
斗亜が刀を恐れる。
そんな姿を見たことがなかった。
逆刃刀を握る時も。
蒼雲を振るう時も。
斗亜は一度として、抜刀をためらったことなどない。
それなのに今は柄へ添えた手が、小さく震えている。
鯉口を切ることすらできず、まるで刀に拒まれているかのようだった。
剣心はゆっくりと斗亜の腰の刀へ視線を落とす。
「(まさか…)」
胸の奥がざわつく。
「(あれは…真剣でござるか…?)」
その瞬間、比古の口元が、わずかに吊り上がった。
弟子の迷いも、剣心の気付きも。
すべて見抜いているような笑みだった。
「どうした」
比古が一歩踏み出す。
「その程度の覚悟で、俺の前に立ったのか?」
斗亜は俯いたまま、蒼雲を握り締める。
「違ぇ…」
震えた声が漏れる。
「抜けば…」
拳が白くなるほど柄を握る。
「また、人を斬りたくなるかもしれねぇ。血の匂いを思い出すかもしれねぇ…あの頃の俺に戻っちまうかもしれねぇ」
静寂が山を包む。
剣心は何も言わない。
ただ、弟の背中を見つめていた。
比古もまた黙っている。
斗亜はゆっくり目を閉じた。