第3章 【伏黒恵】君に響くカンパニュラ**
『ごめんね』
は顔を上げないまま、また文字を書き足す。
『忘れて』
『私も忘れるから。恵くんのためにも』
その二行だけが、紙の上でやけに冷たく見えた。
なんだよ。
忘れる?
何を……。
今のキスをか。
声を出してまで言った言葉をか。
それに、俺のためってなんだよ。
お前にとっては、忘れられるようなものだったのか。
こっちは、お前のことならどうでもいいことまで覚えてんだ。
俺はノートを持つの手を掴むと、の肩がびくりと震える。
「どういう意味だよ」
は唇を噛んだまま、俺を見ようとしない。
その態度が、余計に腹立たしかった。
責めたいわけじゃない。
傷つけたいわけでもない。
ただ、なかったことにされるのだけは、どうしても許せなかった。
俺は掴んでいた手首を強く引くと、の身体がよろけるようにこちらへ近づく。
胸元に抱えていたノートとペンが、ぱさりと音を立てて床に落ちた。
その身体をもう一度抱きしめて、の肩に額を押し当てる。
たぶんが忘れろって言っているのは、さっきのことだけだ。
分かってる。
それでも、俺にはそう聞こえなかった。
その言葉が、今までの全部に向けられているみたいで。
この十年、一緒に過ごしてきたこと。
全部、俺の中に残ってんだよ。
忘れたくない。
にも忘れてほしくない。
本当は、お前の中から一つでも俺を消してほしくない。
ずっと覚えていてほしい。
でも、そんなことを言って。
この関係まで壊れるのは嫌なんだ。
お前がそう言うなら、そういうことにしておけばいい。
それで、今までみたいに隣にいられるなら。
「……わかった。それでいい」