第21章 最後の小節
ライネルを見送ったのは、八月の終わり。
まだ夏の暑さが残っていた、あの日の港。
白い帆。
吹きつける海風。
「そんな顔しないで」
笑いながらそう言った、ライネルの声。
「すぐ帰ってくるよ」
「分かっています」
そう答えながらも、ニナはレネイスを握りしめたまま、離せずにいた。
ライネルは困ったように笑うと、その手にそっと触れた。
「持っててくれてるんだ」
「もちろんです」
レネイスを握るニナの手を、ライネルの手がそっと包んだ。
ほんの一瞬そうしてから、ゆっくりと離れる。
「帰ったら、どこか行こうか」
「どこへ?」
「海じゃないところ」
ニナは静かに笑った。
「もう船は嫌なんですか?」
「仕事じゃなければいいよ。新婚旅行なら」
「……新婚旅行?」
「そう。結婚したら」
あまりにも普通に言うので、返事が少し遅れた。
ライネルはそんなニナを見て、楽しそうに続けた。
「いずれは、子どもも欲しいな」
「もうそこまで考えてるんですか?」
「考えるだろ」
まるで、先の予定を話すような口調だった。
「まあ、急がなくてもいいけど」
「……はい」
「二人で暮らして、そのうち家族が増えて。そういうの、いいと思わない?」
甲板から、出航を急かす声が飛んだ。
続いて、船鐘が鳴る。
ライネルが振り返る。
もう行かなければならなかった。
「ニナ」
呼ばれて顔を上げると、頬に手が触れた。
唇が重なった。
いつもより長いキスだった。
ニナは目を閉じた。
潮の匂いがした。
二人で海を渡る。
知らない町を見る。
帰ってきて、また暮らす。
いつか子どもが生まれるかもしれない。
ライネルは、その全部を当たり前のように自分の未来へ置いている。
そして、その中にはいつもニナがいる。
ライネルの手は温かかった。
安心した。
いつか子どもが生まれて、賑やかな声に囲まれて、その真ん中でライネルが笑っている。
そんな暮らしも、いいなと思った。
この人となら、きっと穏やかに生きていける。