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【H×H イルミ】黒と白のアリア

第20章 王女のアリア


クロロから詞が届くと、すぐにリハーサルが始まった。

 
第三幕。
王女が、誰にも届けられない恋を歌う。
このオペラの核となるアリアは、楽団が最後に練習へ取りかかった一曲だった。


八月も半ばを過ぎたというのに、王都には朝から強い陽が照りつけていた。
日中に建物へ熱がこもり、稽古場の空気はじわじわと温められていく。
窓は閉ざされていた。
開ければ風は入るが、それと一緒に、石畳を走る馬車の音も、往来のざわめきも入ってくる。

午後になる頃には、室内に熱がこもっていた。
ひどく暑いというほどではない。
ただ、何十人もの人間の体温と、長く鳴り続けた楽器の熱。
吸って、吐いて、また吸われる空気が少しずつ重くなり、逃げ場を失っていた。

喉が渇く。
額に滲んだ汗がいつまでも乾かない。
襟元が肌に触れることさえ、妙に煩わしい。
しかし、誰もそれを口にはしなかった。


稽古場には、いつも以上の静けさが漂っていた。


イルミが指揮棒を上げる。

前奏が流れる。
弦が静かに旋律を渡し、その向こうでエレオノーラが息を吸った。
歌が始まる。

「――止めて」

一節目で音が止まった。

「エレオノーラ。違う」

「はい」

「息をもっと長く」

エレオノーラは頷いた。
再び前奏が流れる。
息を吸い、歌い出す。
けれど、数小節も進まないうちにイルミの手が止まった。

「違う。長くって言った。強くじゃない」

「……はい」

エレオノーラは息を整えた。


今日のイルミは異様だった。
他の団員への指摘も厳しい。
だが、エレオノーラへの言葉だけが、明らかに多い。

「そこ、ビブラートを抑えて。もっと消え入るように」

「はい」

同じ数小節が、何度も稽古場を巡る。
そのたびに、何かが少しずつ削られていった。
エレオノーラの返事が小さくなる。
息を吸うたび、肩がわずかに上がるようになった。

「違う」

「……」

「息継ぎが不自然」

「……はい」

「もう一度」

エレオノーラは頷いた。

言われたところを一つずつ直していった。それでも。

「違う」

エレオノーラの指が、譜面の端を強く掴んだ。


「……どこが、でしょうか」


イルミは口を開いた。
けれど、言葉が出てこなかった。
どこが――全部だ。
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