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【H×H イルミ】黒と白のアリア

第15章 五線譜の牢獄


しかし、その感覚は長く続かなかった。
曲が進むにつれ、イルミの表情は少しずつ変わっていく。

第二主題へ入ったところでヴァイオリンが僅かに走り旋律が前へ転がった。続くホルンも入りが遅れ和音が濁る。木管は弦に埋もれ、金管への受け渡しが曖昧になる。
指揮棒が止まり音楽が途切れ、楽団員達が顔を上げた。

「第二ヴァイオリン」

静かな声が落ちる。

「四十二小節目。早い」

名指しされた男が慌てて譜面を見直した。

「ホルンは四十五小節。入りが遅れてる」

今度は別の奏者が、気まずそうに顎を引いた。

「木管はもっと歌って。旋律が埋もれてボヤけてる」

イルミは総譜へ視線を落とした。



頭の中で鳴っていた音と違う。
旋律そのものではなく、少しの呼吸、少しの音量、ほんの少しのタイミング。
それらの積み重ねが曲の輪郭を曖昧にしていた。
イルミは降ろしていた指揮棒を握り直した。

「もう一度」

指揮棒が上がる。

再び演奏が始まった。
先程よりはだいぶマシだったが今度は別の箇所が気になりだす。
トランペットが強すぎる、チェロは濁り、ヴィオラが他の音を飲み込んでいる。

演奏を止め、直す。再開し、また止める。
気付けば最初の数ページだけでかなりの時間が過ぎていた。



イルミは掌の中の指揮棒を握り直す。

「じゃあ、今のところからもう一度」

黒い瞳が総譜と楽団員達を順に見渡した。
指揮棒が静かに持ち上がる。
それだけで楽団員達の空気が揃った。



指揮棒が振り下ろされる。

弦楽器の和音が重なってゆき、ヴィオラは内声を支え、その上をホルンがゆったりと旋律を運んでいく。



第一幕中盤。
ヒロインが故郷を思い出す場面だった。

音楽が静かに頂点へ向かう。

イルミは楽団席に向かって右へ視線を流す。指揮棒が僅かに弧を描く。
次の旋律を迎え入れるための小さな合図だった。



――――音が鳴らない。

劇場の空気が一瞬止まり、空を切った指揮棒が宙に残された。

イルミはゆっくりと指揮棒を下ろす。
黒い瞳だけがクラリネット席へ向けられた。

「……何してるの?」




ここからクラリネットの独奏が流れる筈だった。

弦楽器の和音から一本の旋律が浮かび上がる。そして遠い故郷を思わせる柔らかな音色が劇場を満たし、やがて舞台上の歌へ繋がっていく。その筈だった。
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