第14章 災厄の到来
しばらくその背中を見送った後、ニナが口を開く。
「イルミさん。少し元気なかったですね」
キキョウは高い声で笑った。
「ニナ。心配なんていらないわ」
「え?」
「昔からなの」
キキョウは紅茶をそっと口へ運ぶ。
「音に集中すると他のことが全部見えなくなるのよ」
「そうなんですね」
「ええ」
キキョウは口角を引き上げた。
「あの子はこれしきのことでは堪えない。泣き言なんてあの子の口から聞いたことないもの」
「……」
「あの子は本当に優秀よ」
「はい」
ニナはもう一度だけ廊下を見る。
久しぶりに見たイルミは少し顔色が悪かった。
キキョウ夫人はこう言うけれど、いつかのワイン庫で貴族社会は大変だと愚痴をこぼしてたことがあった。
あの時、当たり前のことではあるけれど、イルミも音楽家の前に同じ人間なのだとニナは感じた。
閉じられた書斎の扉。
その一枚の扉が今はイルミとニナの世界を断絶している。
もう今ではイルミが何を考えているのかニナに知る術はない。
喜んでいるのか、苦しんでいるのか、怒っているのか、はたまた呆れているのか。
わからないけれどきっとそれは全てオペラについてのことだろう。
彼の頭の中にきっと今、ニナは存在していない。
青い護符をキュッと握りしめる。
キキョウの言う通りなのかもしれない。
久しぶりに居間にイルミが現れた時、ニナは心のどこかで、きっといつものように嫌味でも言われるのだろうと思った。
例えば、こうしてキキョウと話してる様子を見たのなら、「一週間も同じ話ばかりしてよく飽きないね」くらいの軽口を飛ばされるのかと。
どこかで、そんな何気ないやり取りを期待してたのかも知れない。
そういう意味では、知らず知らずのうちにやはりイルミも家族になっていたのだ。
けれど、喪失感に気付いた瞬間にはもう、イルミはどこか遠くを見つめている。
まるでこの屋敷に馬車で来た日の夜、二階の西の部屋に一人きり切迫した表情でフォルテピアノに向かっていたあの知らない少年のように。