第35章 人形
車椅子に乗ったFは目がうつろでどこを見ているかわからない。時折口をもぐもぐと動かしている。明らかに正気ではない。その正気を失ったFの口から垂れるよだれをタオルで拭いたり、段差があるよと声をかけたり、車椅子を押している女性は甲斐甲斐しくFの世話を焼いていた。
「Fが大変お世話になりました。」
中年女性は、Fの母親だった。
母親によるとFさんは、2月の下旬くらいからだんだん妄想めいたことを言うようになり、そうこうしているうちに、身の回りのこともよくできなくなっていったとのことだった。
「でも、こんなにいい彼女がいて・・・。この子はFがこんなになってしまってからも頻繁に部屋に行って食事の世話をしたり、精神科の病院に付き添ってくれたり・・・。ほんと、東京にやって、Fがこんな事になってしまったけど、一つだけ良かったのは、Fがこの子と出会えたことかもしれないですよ」
そう言って、母親は弱々しく微笑んだ。
Fは結局、精神科に入院せざるを得なくなったので、地元に連れて帰ることになり、母親が上京してきたらしい。母親も相談を受けていたのだが、気づいたら、Fの状態は取り返しがつかないほど悪くなっていたという。
「Fを連れて帰るにあたって、相談を受けてくれていた俺のところに律儀に挨拶に来てくれたんだ。なんか、こんな短時間に、人間があんなに変わってしまうなんてな・・・」
Kさんは、驚きが隠せなかった。
署の入り口でFさんたち三人を見送るKさんをたまたまAさんも見ていた。
「まあ、これだけの話だと、単にストーカー被害にあって、精神を病んでしまった男の話って感じなんだけどな・・・」
Aさんはちょっと遠くを見た。Aさんが不思議な話をするときのいつもの表情だった。
「Kが言っていたんだよな。
『Fに彼女なんていたのか?』って」
最初に相談に来たときも、二度目、三度目に来たときも、Fは一人で来た。
話の中にも彼女の話は一切出てこなかった。
警らしていた警察官にFが挨拶するときもいつも一人だったし、気になって何度かKさんがFの部屋の前まで行ったときも、Fの部屋にはF一人しかいる気配がなかった。
「それに、Fが見た夢、ってやつ。それは、Fにそっくりな人形を大事そうに抱きかかえてこっちを見ている女性の夢だったそうだが、その女性の特徴が、どうも、あの『彼女』に似ているんだよな」
