第3章 香久夜の過去
彼は香久夜にとって大切な人だが、同時に「外の世界に帰っていってしまった人」でもあったからだ。
「あ…、昔、たまに訪ねてきてくれる人がいて……。その人に、ご飯を作ったことがあります。失敗して、すごくしょっぱくしちゃいましたけど……」
「へえ。『その人』ねえ」
五条は肘をソファの背もたれに預け、フッと口元を歪めた。
(ずいぶん、愛おしそうな顔で思い出してくれるじゃん)
六眼で見れば、香久夜がその「誰か」に寄せる感情が、ただの恩人に対するもの以上の、甘く切ない感情——初恋の残香であることくらい容易に読み取れた。
五条の胸の奥に、ほんの微かな、だが確かに不愉快な嫉妬にも似た引っかかりが生まれる。
(僕が見つけて救い出したと思ったのに、僕より前に彼女の『最初』を奪っていった奴がいるわけだ)
「ふーん。今度、僕にもそのしょっぱいスープ作ってよ」
「え? でも、もう美味しく作れますよ?」
「いいの。失敗作でいいからさ」
五条は立ち上がると、キッチンのカウンター越しに香久夜の顔を覗き込んだ。至近距離で見つめられ、香久夜は思わず包丁を握る手を止める。
「君を山から連れ出したのは僕なんだからさ。
…これからは、僕と恵の好みを一番に覚えてね」
「五条、さん……?」
「はい、お料理再開!」
そう言って、五条は再びいつものおちゃらけた態度に戻り、頭をポンと撫でてソファへと戻っていった。