第3章 香久夜の過去
香久夜の微かな鼻歌が、浴室の扉越しにゆらりと届く。湯気がもれる音も心地よく、家の中には穏やかな時間が流れていた。
「ったく、呑気なものだよ」
そう呟いた時
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、低く震えた。
バイブレーション音は短く、だが、妙に重たかった。
悟は缶をテーブルに置き、スマホに目をやる。
画面にはただ一行。
【件名なし】
「月は昇るが、影が差す。影が望むのは、血と印。」
送り主の名はない。だが、その文体、その暗号――
「……あー、やだやだ。やっぱりあいつら納得してねぇな」
指で画面をスクロールすると、
末尾に、情報屋が使う暗号署名がひっそりと浮かんでいた。
「…噂好きの変態はどいつだ?」
悟は立ち上がり、伸びをする。
シャツの裾がめくれ、鍛え抜かれた身体がちらりとのぞく。
しかしその顔からは、もはや余裕は消えていた。
――傭兵化した呪詛師が動き出した。雇い先はどこか、わからない。
ただ、狙いは、彼女。そして彼女の能力。
「……まぁ、でも。誰にも渡す気はさらさらないけどね」
香久夜の歌が止まり、浴室の扉が軋む音がした。
悟は瞬時にいつもの笑顔に戻る。
サングラスをくい、と持ち上げながら、リビングのドアを振り返った。
「おかえり、プリンセス。湯加減、どうだった?」
何事もなかったように笑うその横顔には、
ただひとつの想いが浮かんでいた。
――守るって決めたんだ。
どんな闇が来ようと、誰にも渡さない。