第2章 寮の怪異事件
湿り気を帯びた闇の中、足音だけが響いていた。
空間は歪み、空気が重い。まるで深い水の底を歩いているような感覚。視界は不自然なまでに暗く、それでも伏黒の目は、確実に“香久夜の残滓”を捉えていた。
「……ここかよ」
握りしめた拳に呪力が滲む。彼女が消えた直後、湯屋から伸びていた異常な呪力の痕跡。それを追ってたどり着いたのは、呪霊が展開した簡易領域の残響。その端を、伏黒は“無理やり”こじ開ける。
「影法術――“無明の階”」
影がにじみ出て、空間の狭間に穴を穿つ。
強引にこじ開けたその向こう側、伏黒は静かに息を呑んだ。
そこには、座り込んだまま、全身を黒く濡れた腕に絡みつかれている香久夜がいた。
「……!」
彼女の顔は伏せられ、表情は見えない。ただ、その肩の震えだけが彼女の恐怖と絶望を物語っていた。
「まさか、お前――」
口の中がカラカラに乾く。
嫌な予感が、首筋を這うように駆け巡る。
香久夜の周囲には、無数の“手”が這い寄り、その中心に、瘦せ細った男のような何かが立っていた。
全身が濡れた紙のようにくしゃくしゃで、ただひとつ、舌だけが異様に長く濡れていた。
「ヨクバ……か」
呪霊の名を口にすると、それはゆっくりと顔を上げた。
赤黒く濁った瞳が伏黒を見据える。
「……ふふ。来てしまったか、黒い子犬」
舌を舐めるように伸ばしながら、ヨクバは香久夜の髪を撫でる。
「これは彼女の“望み”だ。君のような人間には理解できないよ。“死んで消えてしまいたい”という願いは、何よりも純粋だ」
「……黙れ」
伏黒は一歩、踏み出した。
「お前の理屈なんか聞いてねぇ。香久夜がこんな所にいるのは……俺が、気づけなかったからだ」
影が蠢く。
彼の背後に黒い犬が現れ、牙を剥いた。
「だからそのツケは、全部……オレが払ってやる」