第9章 かぐや姫の物語
「『参考書』の課題は、終わりましたか」
「……え……?」
あまりにも拍子抜けするような、日常の延長にある問いかけに、香久夜は涙に濡れた目を丸くし、顔を上げた。膝を下り、自分と同じくらいの目線にいる七海と今日、初めて視線を合わせる。
「あなたがどれだけ自分の運命に振り回されようと、学生であるあなたの本分は「勉強」すること。覚えてきた知識や成果は、あなたがどのような力を宿していようと、絶対に奪われないあなただけの価値です」
「ななみ、さん…」
静かで、けれど揺るぎない七海の言葉が、冷え切っていた香久夜の胸の奥へ温かい芯を通していく。
香久夜はぎゅっと拳を握り締めると、自ら着物の袖で乱雑に涙を拭った。
「今日の分は、どこまで進みましたか?」
「えっと……、まだ全然、できてなくて、」
「そしたら、そこから始めましょう。毎日決められたページ数は午前中までに進めること。香久夜さんがまずすべきことは、それです。」
そう言って七海はすっと立ち上がり、整えられたスーツの袖口を正した。
「…はい! すぐに持ってきます」
香久夜の瞳から湿った諦めが消え、いつもの直向きな光が戻る。彼女の特別な、そして呪われた一日が、七海の差し伸べた手によってゆっくりと規則正しい「日常」へと戻っていく。
その鮮やかな手際と少女の変化を、見つめていた五条は、目隠しの奥でふっと満足気に口元を緩めた。
(……ふん。やっぱり七海に任せて大正解だった)
自分がどれだけ強大な呪力を肩代わりして甘やかしてやろうと、彼女が一人の人間として立とうとする精神の軸を作れるのは、自分ではなく七海の生真面目な教育だ。
香久夜の保護とメンタルケアを七海に完全に託せると確信した五条は、すっと立ち上がると、隣で未だ複雑な表情を浮かべる恵の肩をポンと叩いた。
「少し二人で話す時間をあげるから、終わったら車に乗りな」
五条はそう言って大人の余裕を崩さぬ笑みを浮かべると、「じゃ、僕は外で待ってるから〜」と軽快な足取りで部屋を後にした。七海もまた「お茶でも淹れてきます」と静かに言い残し、二人のためにリビングを空けた。