第9章 かぐや姫の物語
残された静寂の中で、恵が一歩、また一歩と香久夜へ近づいていく。
「…」
恵が低く愛おしそうに名前を呼ぶと、香久夜はゆっくりと顔を上げた。
「恵くん、」
「やっと、目が合った」
恵の口から、切なさを孕んだ安堵の息に、香久夜は自分がしたことを後悔する。
恵くんを、傷つけた。どうしたらいいかわからなくて、私が恵くんの視線から逃げてた時、私はずっと彼を傷つけていたんだ。
「ごめん、私…っ」
「大丈夫、五条先生の言うとおりだ。が俺のこと嫌いになったわけじゃないなら、大丈夫」
「嫌いになるわけないよ! 大好きだから…大好きだから、傷つけたく、ないのに、っ」
香久夜の瞳から、耐えきれずに大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
自分の体内で膨れ上がる過剰な呪力が、愛する恵を壊してしまうかもしれない恐怖。その恐ろしさに押し潰されそうになりながらも、溢れ出す言葉は恵への深い愛そのものだった。
(彼女の涙に安堵するなんて、最低だろうか。)
御伽話みたいに美しく瞳を濡らす香久夜にどうしても目を奪われながら、その涙が自分のためのものだということに、安堵する自分がいた。
恵は香久夜の前に深く屈み込むと、ゆっくりと自分の右手を差し出し、香久夜の手の甲にそっと重ねた。
「…俺、強くなるから」
重ねた手の甲から伝わる香久夜の震えを、恵は己の体温で包み込むようにさすった。
「かぐや姫なんかに傷つけられない呪術師に、なるから。待ってて」
恵の瞳に宿るのは、焦りでも絶望でもない。愛する者をその手で抱き締めるために、泥を啜ってでも強くなるという切なくも揺るぎない覚悟だった。
香久夜は涙に濡れた顔で、重ねられた恵の手の温もりにそっと縋る。
「うん…っ、待ってる」
ほんの少し触れ合う手と手の中に、二人の切ない約束が交わされる。
重ねた手にほんの少しだけ力を込めると、恵は香久夜の涙をぬぐうように、そっと顔を近づけた。
お互いの息がかかるほどの距離で、一瞬だけ躊躇うように呼吸が重なる。香久夜が静かに目を閉じると、恵は彼女の唇に、触れるか触れないかのような、儚く優しいキスを落とした。
「…行ってくる」
「うん。いってらっしゃい、恵くん」
そう言って、恵はもう躊躇うことなく、最強の師が待つ高専への道へと足を踏み出すのだった。