第8章 姫の呪い
七海の突然の言葉に、二人は思わず肩を跳ねさせた。
文机の前で静かに手帳を開いた七海は、二人の動揺など意に介さない様子で、淡々と万年筆の先を滑らせている。
「お二人とも、何か問題でも?」
「…い、いえ!なんでもありません」
香久夜は膝の上でぎゅっと握りこぶしを作っていた。
(補填し合う……恵くんと、私が……)
誰かの足引っ張りでしかない存在だと思い詰めていたのに、「お互いを補い合える」と言ってもらえたことが、たまらなく嬉しかった。
「あぁ、もうお昼ですね。少し私は席を外しますからキリのいいところでお二人で昼食をとってください。少し高専に報告に行くだけですから1時間ほどで戻ります。」
七海が万年筆を胸ポケットに収め、腕時計に視線を落とした。
「それでは、…伏黒くん、彼女を頼みますよ」
「…はい」
七海は静かに立ち上がると、鞄を持って隠れ家の玄関へと向かった。
カチャリ、と重いドアが閉まり、施錠される音が響く。
静まり返るリビング。
七海がいなくなった途端、部屋の中の空気の密度が変わる。
「……」
「……」
香久夜は緊張した面持ちで、ノートにカリカリと文字を走らせていた。
隣で参考書に向き合っていたはずの伏黒から、ふっと影が落ちる。
「…」
「ふぇっ!」
不意に名前を呼ばれ、香久夜が弾かれたように顔を上げると、すぐ至近距離に伏黒の整った顔があった。
七海の前では素っ気なく振る舞っていた彼が、今は隠そうともせずに、温度を孕んだ瞳で真っ直ぐ自分を見つめている。
「恵くん……? どうしたの……?」
「…ここ、漢字、一本線が足りない」
そう言って、恵は香久夜の手からスッとシャープペンシルを奪うと、そのまま彼女の手の上から自分の手を包み込むように重ねた。
「…っ、」
重ねられたマグマの手は驚くほど温かく、骨ばっていて力強い。
香久夜の手を握ったまま正しい書き順で文字を直しながら、恵の低い吐息が香久夜の耳元をかすめた。
「……こう」
「あ……うん……ありがとう」
ドクン、と胸が跳ね上がる。
彼と肌が触れ合うたび、香久夜の体内で微かな呪気が甘く、愛おしそうに揺らぐのが分かった。