❁✿✾ 落 花 流 水 小 噺 ✾✿❁︎/イケメン戦国
第4章 掌中の珠 前編
戸惑いを孕んだ凪が小さな声を漏らした刹那、男のひんやりとした指先が彼女の下唇を優しくなぞる。口の端と言ったにも関わらず、拭った箇所がまったく異なる事実に、最初からクリームなどついていなかった事を少し遅れて悟った。凪の下唇を拭った親指が光秀の方へと引き戻される。そうしてぺろりと赤い舌先を覗かせながらそこを舐めた後、彼が意地の悪い眼差しを注いで唇に弧を描いた。
「やはりこっちの方が俺にとっては美味だな」
「……!!!」
(またそうやって……!!)
してやったりといった雰囲気の男へ、凪が零れんばかりに眸を瞠る。小さな意地悪が成功した事へ、何処か酷く満たされたような表情を浮かべている光秀を前にしてしまえば、咄嗟に喉元までせり上がったいつもの文句も音になる事なく霧散した。
(そんな幸せそうな顔されたら、何も言えなくなるよ……もう)
当たり前を享受する事を、長らく良しとして来なかった光秀が、こうして何気ない穏やかな日常を受け入れてくれている。その事実が凪にはとても尊くて愛おしい。
「……光秀さんにもクリーム、ついてるかも」
「ほう…?生憎と自分では見えなくてな。凪、拭ってくれないか」
今この瞬間でしか味わえない幸福があると分かっているからこそ、普段よりは幾分羞恥を抑え込み、凪がぽつりと告げた。彼女の口にした言葉が嘘だと気付いているくせに、男が敢えてそれを指摘せず首を傾げてみせる。いざなわれるまま伸ばした指先で、光秀の下唇を軽く拭った。腕を引き戻そうとした瞬間、手首を呆気なく囚われる。
「あれだけ人前では恥ずかしがっていたというのに、一体誰に似たのやら」
「知らないんですか?夫婦って、自然と似てくるものなんですよ」
捕まえた凪の指先に軽く唇を触れさせると、光秀が金色の眸を眇めて笑う。羞恥が完全に自分の中から失われたわけではないが、こうして嬉しそうな男の姿を目にする為なら、現代に居る間は普段より少しだけそれを捨て去れる気がした。
「違いない」
彼女が紡いだ科白へ微かに眸を瞠った光秀が、やがて心から楽しそうな笑みを吐息混じりに零す。紡がれた同意の言葉は、どんな睦言にも負けないくらい甘やかで、何より深い慈しみが込められていたのだった。