第98章 気付かないふりをするのがマナーでは?
巳波がノースメイアへ発ってから、今日で4日目だ。ちなみに彼は、まだ帰って来ていない。
徹夜して働き詰めることには慣れているが、それはせいぜい2.3日の話。だんだんと頭が回らなくなり、思考力が落ちているのを自覚していた。
「今日は仕事終わったら定時で帰っていいよー」
『え』
「あっは!良い表情だ!最高に間抜け!あ、ねぇ記念に1枚いい?」
『いや、本当に帰っていいんですか?』
「なにさ、その反応。僕のせっかくの優しさ、素直に受け取れないならべつに」
『すみませんでした。全力で受け取ります』
普段なら、絶対に疑ってかかったろう。他の誰でもない、了の言葉だ。しかしこの時の私は馬鹿みたいに、その甘い言葉に踊らされた。
すぐに人の居ない場所へ移動して、愛しい人に電話を掛ける。とにかく、声が…。声が聴きたい。
『もしもし、突然でごめん。どうしても声が聴きたくなって。いま少し電話出来る?』
《 ……出来る、けど 》
ずっと聴きたかった声が、ようやく聴けたはずなのに。頭の中が真っ白になった。
『え……だ、誰ですか』
《 楽だろ八乙女楽だろ!お前、自分からかけて来といて何だその言い草は! 》
自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。私は頭に手をやって項垂れた。
『ごめんなさい。間違えました』
《 …そうかよ。なら、間違えついでに少し話させろ 》
『いや…それは』
時間がないわけではない。しかし、私はこの時 何故か本気で思ったのだ。これ以上、楽とは話さない方が良いと。
無性に募る罪悪感。不思議な幸福感と、早く切ってしまいたい不安感。そのどれもが、私を押し潰してしまいそう。
聴き慣れたはずの楽の声が、こうも耳元で揺らぐのはどうしてだ。あぁきっと、私が尋常ではなく疲れているから、正常な判断が下せなくなっているに違いない。
私が求めているのは、龍之介だ。そうに違いないのに。