第118章 青い花の秘密
その頃、寺を見下ろす高台では、笠の男が静かに片手を上げた。
「時は来た」
その合図とともに、黒装束の男達が音もなく斜面を駆け下りる。
草を踏む音すら夜風に紛れ、影だけが本能寺へと近づいていく。
門番の兵が何かの気配に振り返った、その刹那――
「ぐあっ……!」
首筋を打たれた兵が、声を上げる間もなく崩れ落ちた。
倒れた兵の体を静かに脇へ寄せる。黒装束の男たちが門に手をかけた。夜気に濡れた木肌が、月明かりを鈍く弾く。
軋みひとつ立てぬよう、慎重に押し開くと、門の隙間から影が次々と境内へ滑り込んだ。地面を踏む音さえ殺し、黒い波が石畳を這うように広がっていく。
「急げ。青い花の入った長持を探せ」
囁くような声が飛ぶ。風に紛れたその命令だけがやけに鋭く耳に残った。
本堂へと続く石畳を進む。灯りは消され、張り詰めた静寂の中で闇だけが先へ先へと伸びていた。
……チリン
小さな鈴が鳴った。澄んだ音が静寂の中でやけにはっきりと聞こえた。鈴の音は夜の静けさを裂いて高く跳ね、境内の隅々へ冷たく響いた。
「……っ!」
先頭を進んでいた男は息を呑み、足を止める。
暗闇の中で目を凝らして見れば、床には細い糸が張られていた。その先に小さな鈴が結ばれている。月光を受けた糸が微かに銀色の線となって浮かんでいた。
「罠か…」
男が糸へ手を伸ばした、その瞬間。
「そこまでだ」
低い声が闇を裂いた。
奥からひとつ、またひとつと篝火が灯っていく。ぱちぱちっと油の爆ぜる音が連なり、橙色の光が石畳を舐めるように広がっていく。光に照らされるようにして、槍を構えた織田軍の兵が姿を現した。刃先が一斉に揺れ、火の色を冷たく反射する。
その中央で、腕を組んだ信長が不敵に笑っていた。篝火の明かりが頬の影を深く落とし、その冷酷な笑みだけを際立たせている。
「待っていたぞ」
静まり返った寺内に信長の低い声がゆっくりと落ちる。遠くで聞こえていた虫の音が止み、代わりに誰かが息を呑む気配が広がった。
「青い花を狙う者が現れることも、この寺へ忍び込むことも、全て計算の内だ」
黒装束の男たちが僅かにたじろぐ。火に照らされた面の下で、目だけが揺れていた。
だが、高台から見下ろす笠の男だけは、口元を緩く歪めた。月を背にしたその姿は、まるで最初からこの光景を予期していたかのように落ち着いていた。
