第115章 紀州動乱
「久方振りですなぁ、奥方様。曲水の宴の時以来やろか」
広間で対面した関白近衛前久は、緊張した面持ちでぎこちなく挨拶をする朱里とは反対に屈託のない笑顔を見せた。
「ご無沙汰しております、関白様。その節は大変お世話になりました。此度再びお目もじ叶いましたこと、誠に恐悦至極に…」
「堅苦しい挨拶は抜きでよろし。信長さんともそうしてますし、ここは宮中やあらしませんよって」
「は、はい…ありがとうございます」
近衛前久は公家衆の中でも武家に対して好意的で、信長とは日頃から趣味の鷹狩りを通じて親しく交流している。
近衛家は摂政関白の座に就くことができる藤原氏の名流「五摂家」の中でも筆頭に位置する名門の家柄であり、前久は織田家と朝廷との橋渡し役を務めており、信長からの信頼も厚かった。
(内裏からのお使者と聞いて身構えていたけど、近衛様なら信長様とも個人的にお親しい方だし、私も知らぬ方ではないから良かったわ。でも関白様自らお越しになるほどの用件とは…)
「わざわざお運びいただき恐縮ですが、夫、信長はいまだ陣中でございまして…」
「…やはり勝利の報せはまだですか」
それまで和かだった前久の顔から不意に笑みが消え、何事かを思案するように眉が顰められる。
信長がいまだ戦場にあり、勝敗が定かではないことが分かっていたかのような言い様に引っ掛かりを覚えた。
「あの…やはり、というのは…?」
「悪いが…お人払いを願うても?」
「えっ…」
余程深刻な話なのだろうか、先程までのくだけた雰囲気はなくなり声も潜められて険しい表情なのが窺える。
不穏な空気に戸惑いながらも、傍に控えていた侍女達を下がらせて改めて前久と向かい合った。
「現時点でこちらに戦況は届いていない。織田が勝ったか負けたか、信長さんがいつ帰城されるかも分からん…そういうことですな?」
「そう…ですが」
改めて確認されると途端に不安になってくる。
(信長様が負けるはずがない。もう間もなく戻られるはず…もうすぐ何か良い報せが届くに違いない)
「…奥方様。今から言うことは他言無用に願いたいのですけど…」