街灯の下、二つの笑い声が響く。
傘を地面に捨てて、
マンホールの上に立つ俺ら。
だけど、小さな円に二人は乗れなくて、体格的に小さい椎名がバランスを崩す。
その腕を咄嗟にひいて、自分の方へ抱き寄せた。
自然と椎名を抱きしめる形になって
俺は、一気に顔に血が上った。
「ご、ごめん!!」
『なんで謝るの?』
「え、っと……それは」
言葉を濁す俺。
確かになんで謝っているんだろう。
別に悪いことしてないのに。
すると、隣でくすくすと笑う声が聞こえて「どうしたの」と聞いた。
『だってすっごい心臓がドキドキってしてて面白かった』
カァァッとまた顔に血が上った。
でも彼女の笑う顔を見て、バカらしくなって俺も笑った。
赤色タイルを踏むゲームは、気が付いたら終わっていて俺達は何事もなかったかのように歩いた。
しばらく歩いていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきて、
街灯下の段ボール、その中に子猫が2匹いて鳴いていた。
「捨て猫……?」
びしょびしょの手で猫を抱き上げる。
本当は飼ってやりたいけど、俺の家はペット禁止だから飼うことができない。
ごめんな、小さく謝って俺は段ボールの中に子猫を置いた。
雨に打たれる子猫に胸が痛む。
その時、椎名が自分のバックから折り畳み傘を取り出して、子猫に差した。
『これで濡れないね!』
にこりと笑う。
って、ちょっと待って!
なんで傘持ってるのに差さなかったの!?
『え、だって差してくれる人がいるもん』
……かわいいって思ってしまった。
そして、俺の腕を引いて歩きはじめる。
肩を並べて傘の中、2人きり。
『でもね、本当の理由はね違うんだよ』
「え?」
椎名は真剣な眼差しで俺を見た。
きっと傘を差さない理由を言っているのだろう。
『空だってね、泣きたいんだよ。でもみんな傘を差して見てみないフリ。かわいそう。だから私は傘を差さないで慰めてあげてるの』
ぱしゃん。
水たまりが跳ねた。
「じゃあなんで今俺の傘の中にいるの?」
ぱしゃん。
彼女の靴が濡れる。
『だって見てみないフリしなかったから』
ぱしゃん。
意味が分からなかった。
彼女は満面な笑みを浮かべて、水たまりの上で大きくジャンプをする。
ばしゃん。
ばしゃん。
何度も跳ねた。
「……濡れてるよ」
『知ってる』
ばしゃん。
『でも今は濡れたい気分』
今にも泣きそうな横顔で、水たまりを眺めていた。
俺が声をかけようとしたとき、ぱっと顔をあげた白い歯を見せて笑って
『また明日、バイバイ』
手を振って彼女は、走ってジャンプして回って踊って、そして姿を消した。
どうしたの。
いつものように、そう聞いていたら君は何か言ったのかな。
それとも初めて話したあの日みたいに『大丈夫』と答えて壁を作っていたのかな。
次の日。
今にも振り出しそうな曇り空。
雨が降るより、曇りの日が身体的だるさが多い気がする。
昼休み、購買でパンを買おうと廊下を歩いていると、
数人の女子と椎名が話している姿を見つけた。
椎名が俺以外と話している姿を見るのは初めてだった。
胸の奥がモヤモヤして、嫌な予感が渦巻く。
彼女たちは、椎名を連れてどこかへ行ってしまった。
俺は購買行くのをやめ、彼女たちの後ろを着いて行く。
たどり着いた場所は、多目的教室。
こっそりと扉を数センチ開け、中の様子を覗いた。
そして俺は見てみてしまった。
椎名は、数人の女子からいじめられていた。
腕や足を殴られていて、うめき声が聞こえてくる。
「男に媚び売ってんじゃねーよ、ビッチが」
「つーかさ、由美が縁下くん好きって知ってるくせによく一緒に帰れるよね」
自分の名前が彼女たちの言葉から出てきて、心臓が跳ねる。
椎名がいじめられている理由は俺が原因なのか。
「死ねよ、ブスが」
最後の一蹴りがみぞおちに入ったのか、椎名は大きく咳き込む。
身体を小さくうずめて、何度も咳き込む。
心臓が痛い。
助けなきゃ。
そう思った。
でも、体が動かない。
俺は逃げるようにそこから立ち去った。
俺は見て見ぬフリをしたのだ。
関わるのが面倒だと思ったのだ、心のどこかで。
"いじめは最低だ"
"見て見ぬフリはよくない"
なんて自論を持っていて、
自分はこんな人間にはならないとまで確信があった。
だけど、それは口先だけの偽善に過ぎなかった。
俺は、ただの臆病者だ。
ドキン。
心臓が大きく跳ねる。
彼女といつもと同じように肩を並べて歩いた。
雨がしとしとと降っていて、俺は傘を広げる。
笑顔で中に入ってくる椎名。
俺の心はどんよりとしていていつものように会話ができなくて、隣で笑う彼女の顔が苦しい。
ねぇ、椎名。
今の君の心の内はどんな風なの?
泣きたいんじゃないの?
どうして無理して笑おうとするの?
ざわざわとする胸の奥。
いつもより沈黙が耳元で騒ぐ。
今日、君がいじめに遭っているところを見たよ。
そう聞いたら、君はどんな顔をする?
言葉にしたいのに、喉の奥に引っかかって音にならない。
"触れないのが思いやり"
そういう場合もある。
なかなか卑怯な言い訳だ。
彼女の痛みを知るのが怖いだけだ。
なんて、汚いんだろう。俺は。
くるり、と傘を一回だけ回した。
傷ついた君の姿をすぐ近くで見ていた。
それでも君は、笑って俺の隣に立っている。
弱音、吐いちゃいなよ。
大丈夫だよ。
今は梅雨の時期で雨が降っている。
雨か涙かなんてわからないよ。
そう言えたらどれだけよかっただろう。
『バイバイ、またね』
あの時の俺は、まだ子供で大人になりたいと願っていた。
「バイバイ、また明日」
白い歯を見せて、彼女は満面の笑みで、腕がちぎれるんじゃないかってくらい腕を振った。
そして、彼女はいなくなってしまった。
次の日、学校に行ったら担任から「転校した」と聞かされた。
東京のどこからしい。
いじめに遭っていると知った彼女の両親が決めたことらしかった。
椎名は、以前からずっといじめを受けていたらしい。
俺が見たあの時よりも前に。
それを感じさせないほど、彼女は毎日俺の前で笑っていた。
もし、あの時俺が何らかの形で助けていたら
彼女は転校せずに済んだのだろうか。
どっちにしろ転校したのだろうか。
だけど、助けてやればよかったと思う。
少なくとも、こんな形でお別れなんてしなかったと思うから。
恐ろしいほどの虚無感が俺を襲った。
いつも通りの帰り道。
傘を開いて、隣を見るがそこに彼女はいない。
彼女と歩いた帰り道を、一人で歩く。
赤色タイルを見つけて、赤色のタイルだけを踏んだ。
だけど、全然楽しくなくて、すぐにやめた。
マンホールの上でくるりくるくると踊る彼女の姿はどこにもなくて。
俺は傘を投げ捨てて、その場で声を出して泣いた。
雨に打たれているから、涙か雨かなんてわからない。
だから俺はたくさん泣いた。
大粒の涙が頬を伝うのがわかる。
ここに、この場所に、俺の隣に、君がいないってだけで、
どうしてこんなにも景色が滲んで見えるのだろう。
俺は、ずっと泣き続けた。
子供のように、ずっとずっと。
あれから月日が経って、俺は高校2年になった。
大好きなバレーをしたくて、強豪だと言われた烏野高校に入学した。
厳しくも優しい先輩に囲まれ、
落ち着きがないけど頼もしい同期がいて、
癖があるけど実力のある後輩に恵まれ、
俺の毎日は充実していた。
だけど、雨が降る日はいつも思い出してしまう、あの日のこと。
彼女を助けてあげられなかった俺の苦い思い出。
6月上旬。
梅雨の時期がやってくる。
嫌でもあの日のことが頭の中で映像として蘇る。
言えないことが今よりたくさんあった。
あの時の虚無感を今でも覚えている。
忘れられるはずなんてない。
俺の隣から君がいなくなってしまったこと。
分かち合えなかった遠い日のこと。
寂しいと思った。
苦しいと思った。
君に謝りたい。
君に会いたい。
こんな当たり前を思うだけで、胸が苦しくなって景色が歪む。
「今日は転校生を紹介するぞ」
朝のHRの時間、担任がその言葉に、
ざわざわと騒がしくなる教室。
だけど俺はそれを聞き流し、ざあざあと降る雨を眺めていた。
彼女は今、何処で、何をして、どんな風に過ごしているのだろう。
悲しいことは思い出になりつつある。
君もきっとそうだろう?
当たり前のことで、その当たり前がとても悲しい。
『東京から転校してきた椎名リトです』
俺は自分の耳を疑った。
ゆっくりと窓から教卓の方へと目を移す。
そこには、見覚えのある女の子がいた。
俺が傷つけてしまった女の子。
「椎名……」
椅子から立ち上がって俺は思わず彼女の名を呼んだ。
クラスの連中が俺を見る。
だけど、そんなの気にならないほど俺の心はいろんな感情で満たされていて、
言いたいことがたくさんあるのに、声が喉の奥でつっかえる。
椎名は俺の顔を見て、あの日と変わらない真っ白な歯を見せて満面の笑みで
『久しぶり、縁下くん』
一人ぼっちの相合い傘に、二つの笑顔が戻ってきた。
その日の放課後。
俺は教室で待つ彼女の声をかけられなかった。
一緒に帰ったらまた彼女は殴られてしまう。
そんなのは嫌だ。
だったら、一緒に帰らない方がいいんじゃ……。
『あ、やっと来た!早く帰ろう!』