第5章 不協の兆し
「家を清浄に保ち、家族の体を労り、食事を整える。外でどれほど富と名誉を稼いでも、財産も品格も守らねば、一朝にして失うのですよ」
キキョウ夫人はそう言いながら、ニナを立たせる。乱れた襟元に指先をかけ、皺をなぞるように整えていく。
「今日の貴女はどう? 朝からまともな食事も作れず、お茶すら満足に淹れられない。お皿は割れ、屋敷は乱れて……」
指先が滑るたび、崩れていた布地が静かに形を取り戻していく。
「せっかくこの館で築き上げてきた貴女の役割を、自ら崩しているのではなくて?」
気づけば、乱れは跡形もなく消えていた。
「……申し訳ありません」
ニナは背筋を伸ばし、控えめに頭を下げた。
「貴女の役目を、きちんと果たしなさい。良い家に嫁いでも恥じぬよう、わたくしは貴女を育ててまいりました。貴女なら出来るはずです」
「はい……」
「この程度のことで心を乱し、己を見失うようでは、貴族はもとより、この家でさえ支えられませんよ」
キキョウ夫人は、ニナの頰をそっと撫でた。冷たい指先だった。
「ニナ、貴女は素敵よ。……けれど、このままでは足りない」
一拍の沈黙のあと、静かに言い放つ。
「己の選択に、自信を持ちなさい」
そのキキョウ夫人の言葉は、ニナの中に静かに沈んでいく。
(……逃げてはいけない!
……何から……?
音も、家も――どちらも大切……
だけどこのままでは、どちらも守れない)
そして、ニナの心の奥の決意に小さく、けれど確かな火をつけた。