第5章 不協の兆し
けれど。
「ニナ」
名前を呼ばれた瞬間、心臓を掴まれたように跳ねた。
「イルミにお茶が出ていないわ」
「……はい!」
反射的に声が出る。
「指摘されてから動くようでは困るの」
静かな声だった。
けれど、その一言で背筋が凍る。
「……すみませんっ」
ニナは慌てて火をつけ、小さなポットに水を注ぐ。
手を洗い、カップを並べる。
指先が、わずかに震えていた。
(早く、早く……)
湯が沸く音が、やけに遠く感じる。
「……失礼します」
いつになく震えた手でカップを置く。
その瞬間――
小さく、音が鳴った。
縁がわずかに傾き、紅茶が零れる。
「……っ!」
ニナは息を呑んだ。
イルミは一切の視線もくれず、机に拡げていた楽譜を持ち上げ、そのまま何事もなかったかのように口を開く。
「それで、先方からの修正依頼が少し厄介でさ。構造ごと組み替えになる」
完全に、意識の外といった様子だ。
「そう、それは大変ね」
「うん。主旋律はそのまま使えるけど、展開の流れが趣旨と合ってないらしくて。二部を丸ごと差し替えになった」
イルミは淡々と続ける。
「でもまあ没になるよりは大分マシかな。使えなくなったフレーズも、別の形で流用できるし」
「まあ、あまり無理をしたらダメよ。でも、先方のおっしゃる期日は必ず守りなさい」
「うん。分かってる。締切には間に合わせる」
ニナは慌てて布を取ってくる。こぼれた紅茶を拭き取りながらも、顔を上げることができなかった。
厨房に戻ると、火を強めた鍋の中身が、すでに形を崩し始めていた。
煮汁は濁り、刻んだ野菜の輪郭が曖昧になっている。
「……」
慌てて火を落とし、かき混ぜる。
底の方から、わずかに焦げた匂いが立ち上った。
(……まだ、大丈夫)
自分に言い聞かせるようにニナは念じた。
けれど、一度崩れたものは、元には戻らない。
ニナはそれ以上考えるのをやめ、手だけを動かした。