第5章 不協の兆し
朝の光が差し込む頃には、厨房はすでに動き始めていた。
薪の燃える音が小さく響く。
鍋に火をかけ、野菜を刻み、手を止める暇もなく次の作業へ移る。
久しぶりに体が軽い。熱もすっかり下がり、頭もはっきりしている。
(遅れを取り戻さないと)
そう思いながら、ニナは手を動かしていた。
鍋の蓋がわずかに揺れ、湯気が立ち上る。
刻んだ野菜を鍋に入れて火加減を確かめようとした、その時だった。
「ニナ」
背後から、声が落ちる。
声の主は振り返るまでもなく分かった。
「……はい」
手を止めかけて、ニナは一瞬だけ鍋を見る。火はまだ大丈夫そうだった。
「ちょっと来て」
短い言葉。
「……鍋を火にかけていて」
「すぐ終わる」
言いながら居間から出て行ってしまった。
ニナは唇を引き結び、鍋の蓋をずらし火を弱めると、その場を離れた。エプロンの端で手を拭いながら振り返り声が消えた方へ急ぐ。
廊下に出ると、イルミは壁にもたれ、片手に開いた楽譜を持っていた。 もう片方の手には、羽ペンが握られている。
「インクが切れた」
ニナは目を瞬いた。
「……インク、ですか?」
「そう。書斎のインク壺が空だ。補充して、ついでに羽ペンの先も整えておいてよ」
イルミはそう言いながら、楽譜を軽く振ってみせた。
ニナは胸の奥で小さく息を詰めた。
朝食の支度を始めたばかりで、野菜はまだ半分しか刻んでいない。鍋の火も、弱めているとはいえ完全に消したわけではない。
「今、厨房で……」
「火は消しておけばいいだろう? すぐ戻れる」
「……でも」
「急ぎの仕事がある。食事を済ませたらすぐに取り掛からなきゃ」
イルミの視線はすでに楽譜に戻っていた。
ニナは指先をエプロンに擦りつけながら、小さく頷いた。
「……分かりました」