第96章 覆水不返(ふくすいふへん)
きっと麻衣ちゃんは知らないんだ。イザナギが黄泉の岩戸を開けたあとの結末を。
水中をもがくかのような緩慢な動き。もどかしいほどの足取りの遅さ。
でも、それでも、いかなくちゃ、止めなくちゃ!
あと20メートル
ますます岩戸は、その色彩を薄くし、向こう側がよく見えている。岩戸の向こうは真っ暗だ。漆黒の闇だ。硫黄の匂いが強くなる。瘴気が濃くなる。生きとし生けるものが決して辿り着いてはいけない世界がそこに広がっている。
お願い!辞めて!
私の願いが虚しく響く。
麻衣ちゃんの顔が見えるが、こちらは全く見ていない。目は岩戸の向こうに釘付けになっている。岩戸の向こう、一番手前に立っている二人の男女。背の高い男性、それより少し背が低い、肩までの髪の少しふくよかな女性。顔は暗くてよく見えない。男性は大きく手を振っている。女性は手を体の前で組んでいるように見えた。
あと10メートル
「お父さん・・・!!」
麻衣ちゃんが叫ぶ。その声にはやっと求めていた人に会えたという喜び、そして憧憬が溢れていた。
「ごめんなさい!麻衣が!麻衣がお熱出したから!!」
あと・・・5メートル、必死に私は彼女に手を伸ばしていた。