第8章 仮初
3ヶ月も経つと、鶴之丞が家に帰らない日も増えてきた。
いくら冷たい男といえど、年頃の男ならば女遊びもするのだろう。もともと愛情も持っていない舞踊のための政略結婚だ。
でも、覚悟を持って全てを捨ててきた自分を存在しないものと徹底的にされるのが、自分自身の尊厳すらないのだと思えて苦しかった。
それでも、菖蒲は懸命に舞い込む仕事をこなしては、神楽舞踊に貢献するよう健気に働く。
報われない。使用人も関わってこようとはしない。
人の気配はあっても、物がいくら価値のあるものがあろうとも、まるで空箱の牢獄の中、一人閉じ込められたようだった。
夜、誰もいない日は、肩口の傷を撫でては自分自身で過去に投げやった幸せを思い出しては、”心はあの場所に置いてきた”という決意が呪いのように心を抉った。
感情なんてなかったのに、一度持ってしまえば扱いきれなくて振り回されてしまう厄介なものだと思った。
そして、疑問がいくつかある。
鶴之丞はなぜこの痣を見て、そこまで怯えてしまったのか。
この傷は鶴之丞にとってどんな意味を持つのか
この傷を持つ菖蒲のことを神楽舞踊にとってどうおもっているのか。
結局、祝言から半年以上が経ってしまったけれど、決意をもって嫁いだ以上は向き合わなければならないだろう。
それは彼女自身にとってというよりは、何より大切にしてきた『神楽舞踊』の存続のために。
そう思った菖蒲は鶴之丞が再び家に帰ってくるのを待ち、ちゃんと話さなければならないと思った。
鶴之丞が屋敷に帰ってきたのは4日後だった。
一声もなく屋敷に戻り、外の廊下を音もなく足早にこちらに向かってくる音が聞こえる。
「家元…お帰りなさいませ」
ただ使用人の声が聞こえて、屋敷に入った人物が鶴之丞だとわかった。
意を決して、部屋を出て、鶴之丞の視界に入るところに座り、手を着く。
「旦那様…お帰りなさいませ」
まるで菖蒲など、存在せぬかのように、視線も送ることなく奥へ向かおうとする。
「旦那様。神楽舞踊の今後について大事な事です。
お話したいことがあります」
後を追って毅然とした態度で鶴之丞へと声をかけると、勢いよく振り返り菖蒲に鋭い眼差しを浴びせた。
「貴様ごときが神楽舞踊を語るな!!」