第115章 紀州動乱
それぞれの思惑が交錯する中、短い夜が明けた朝靄の戦場では再び両軍が激しくぶつかり合っていた。
「押せ、押し通せ!天下に仇なす逆賊、毛利を討ち取れ!」
「止まるな、進め!目指すは魔王信長の首ぞ!」
人馬が入り乱れ、土埃が舞う中で両軍の兵達の怒号と刃の交わる耳障りな金属音が響き渡る。
織田軍は前日の勝ち戦の勢いをそのままに各方面でじりじりと毛利軍を押していた。
「御館様、敵の陣形が崩れ始めました。このまま一気に押し通しましょう!」
次々にもたらされる斥候からの報告を慌ただしく聞いていた秀吉は、本陣の奥で悠然と構える主に采配を仰ぐ。
信長は味方優位の報告にも表情を一切変えることはなく、常と変わらぬ低重な口調で指示を出す。
「前線に増援を送り、一気に攻め立てよ。ただし、油断はするな」
「はっ!」
指示を受けて散り散りに駆け出していく伝令達の姿を横目で見ながら、信長は何事か思案するように手にしていた鉄扇を手の内でゆっくりと弄ぶ。
ここまでは予想通りだった。昨日に引き続き、毛利軍に元就の姿は見られない。
小狡かしいあの男のことだ。戦場に姿を見せないということは何処かで謀事を巡らせているのだろうが、それぐらいはこちらも想定済みだ。
雑賀衆の鉄砲による巧みな攻撃には手を焼いているが、大筒などの大型の火器を擁するこちらの兵力が優勢であることに変わりはない。
(ここで一気に勝敗を決する。何人たりとも邪魔はさせん)
「っ、申し上げます!」
その時、転げるように慌ただしく駆け入ってきた伝令の上擦った声が信長の思考を中断させる。
「敵方に新たな援軍あり!一向宗門徒と思しき一群に我が軍の側面が襲われております!」
「顕如め、やはり現れおったか」
『進者往生極楽 退者無間地獄』
進むは往生極楽、退くは無限地獄と書かれた幟旗がゆらりゆらりと不気味に蠢きながら近付いて来るのが遠目からでも窺える。
率いるのは本願寺の僧侶らだが、一向宗の兵の多くは民百姓であり、彼らは粗末な武器を手に、ただひたすらに念仏を唱えながら進んで来る。
地を這う蛇の如く、じわりじわりと迫って来る軍勢が唱える念仏はさながら黄泉の国から湧き上がる死者の怨嗟の声のようであった。