第26章 翡翠の誘惑
「風呂から上がって部屋に戻ると分隊長は寝ていたんだ。よっぽど疲労が溜まっていたんだろうね。ベッドに倒れこむようにしていた…」
モブリットの脳裏にあの夜焼きつけられた光景が、鮮やかによみがえった。
……やけに静かだな。
そう思った。
いつもなら風呂から上がって服を着ているときから、ハンジの独り言やらうなり声、うめき声、ときには叫び声すら耳に入ってくるからだ。
着替え終わって部屋に入りがてら声をかけた。
「分隊長、黙っているなんてめずらしい。行き詰まりましたか?」
きっと大きな壁にでもぶち当たって、計算式を脳内で構築しているのだろうと予測しながら。
………。
返事はなくシンとした室内。
「……分隊長?」
真っ先に目を向けた机にその姿はない。
……俺としたことが。トイレなんじゃないか?
用を足しているという可能性を失念していた。多分トイレだと、自身の寝床になるソファに腰をかけようとしたそのとき。
………!
気づいてしまった。
トイレなんかではなく、窓際に置いてあるベッドで寝ているハンジの姿に。
思いがけないところにいたので、ドキリと驚く。
驚いたことが照れくさくて、ごまかすようにつぶやいた。
「やだな、分隊長。先に寝るならそう言ってくださいよ…」
どさっと倒れたかのような姿勢で寝ているハンジに近づいた。
忠実な部下として、寝姿勢を正してあげようと思って。
それに長い髪を無造作にタオルで巻いてあるのも外さないと、きっとひどく乱れてしまうだろう。
「動かしますよ」
うつぶせの状態で死んだように眠っているハンジに一応声をかける。
「……その前に」
仰向けにしてからでは髪をまとめているタオルを動かせない。先に外してしまわないと厄介だと気づいて、タオルに手をかけた。
しかしこのままタオルを取れば、恐らく起きてしまうだろうと躊躇した。
……怒るかな…?
だがこのまま放っておいて朝になって髪が爆発していたら、それはそれで怒られる気がした。
朝になって寝ぐせを取るためにもう一度洗髪… なんてことになったら。
……今、目覚めてしまうことより分隊長はそっちの方が絶対不機嫌になる。
モブリットの腹は決まった。