第1章 駆ける兎の話
呑気な声がして、狼娘と私は一緒に室の口を見た。
「戸が開いていましたよ。このまま閨房の心得を語るつもりでいるのなら、ここは閉めた方がいいかと思いますがね」
沈梅が眠たげな顔をして戸枠に寄り掛かっていた。狼娘と私を見て眩しげに目を瞬かせる。
「成婚に離宮、おめでとうございます、狼娘。兎速」
私は思わず目を伏せてしまった。"遠縁の相手"と縁定の決まった沈梅にまた会えるとは思わなかったから、どんな顔をしていいかわからない。
「うん、おはよう、沈梅。相変わらず海月だな。も少しシャキッと出来ないのか、お前」
「連夜の徹夜明けでは海月でも仕方ないと思って頂きたい。誰しもがあなたのように頑健な訳ではありませんからね」
呆れ顔をした狼娘に、沈梅は欠伸をして答えた。私の気まずげな様子などまるで気にしていない。沈梅は何処までも沈梅らしい。気が抜けた。
「徹夜?また本を読み耽ったか?目を損なうぞ。気を付けろ」
狼娘はいよいよ呆れて言うけれど、違う。沈梅はお父様に言い付かった古詩の写本に掛り切りだったんだ。
「そうですね。気を付けましょう」
誤解を解く気もなければ、右から左に話を流しているのを隠す気もない投げ遣りな様子で、沈梅は身を起こしてまた欠伸した。
「顔を洗って身支度しておきなさい、兎速。今日は忙しくなりそうですよ。私は失礼してひと眠りさせて貰います」
そう言い残してふらりと立ち去る。
私は狼娘と顔を見合わせた。
「土は派手な婚礼が決まりか?」
「知らない。私、何にも聞いてないもの」
「何も聞いていない?随分呑気だな」
「だって本当に何も聞いてないの。だから、何がどうなるのかさっぱりわからない」
「他人事じゃないんだぞ?そんな事で大丈夫なのか、兎速。お前、国に帰るのがどういう事か、分かっているんだろうな」
心配そうに眉を顰めた狼娘に、私はしっかり頷いてみせた。
「大丈夫。分かってるから」
そう、前よりちょっとは分かって来たと思う。だから、大丈夫。誰かを羨んだり、自分の国を卑下したりしない。
私は兎。何があっても、私は走る。私の国まで。
朝食は姉妹とは別に早めにとった。狼娘が付き合って、一緒に卓についてくれた。
「知香にはもう会ったの?」